2008年10月21日火曜日

蛭子町大阪町


「色を売る街を悪所という。この理は如何。物堅い人もこの里に伴う時は物言いやすく、道にて始めて会う人も連れとなって旧年の馴染みのように、心の憂いある時もここに至れば忽ちに笑いを催す。世の中に極楽世界というのはこの里のことであるのに、このわけも知らず世を譏る人はここを悪所と名付ける。」(享和雑記)

蛭子町にはゴンゾウと呼ばれた沖仲士たちが多く住んでいた。山の手にはゴンゾウの親分が、そして海側にはゴンゾウたちの共同長屋が点在していた。ここ蛭子町はゴンゾウたちの生活の場であった。

蛭子町にはもう一つの顔があった。
それは港町の歓楽街としての顔である。その最盛期には五百人以上の従業婦が働く、馬場遊郭に対するいわゆる「岡」であった。
なにしろ御法度の笑売である。ネオンもなければ看板もない。夜はひっそりと妖しい闇の中。その闇の中へ海の男たちは吸い寄せられていった。刃傷沙汰も毎日のように起こり、麻薬のような危険と快楽の魅力に溢れた街であった。

ここで遊ぶ者の大半は近所の人であった。度々来ても豪遊する者はいない。豪遊しないのではない。できないのである。それを女も承知しているから、御散財を掛けようともしない。安く売らなければ一人の客も得られない。お客がなければ腹も減るのである。
だから客撰みもしなければ取り持ちも入らない。需給の際に何の手間も隙も掛からない。1~2時間の遊びもよし、泊まりもよし。手軽に遊べる所であった。


昭和三十三年四月一日、売春防止法が施行された。
本当にこの法律が施行されるのか、当時多くの人は疑心暗鬼であった。現実問題として転業はできるのか。従業婦の転職先は。しかしいちばんの問題はこの商売が消滅するとはだれも信じていなかったことであろう。何しろ日本開闢以来続いてきた伝統産業である。施行半月前にして転業届けを出した店はわずか二軒しかなかったのはそのためである。

また多くが旅館への転業を望んでいた。そこには、いつかこの法律が沙汰止みになり、また元の妖しい歓楽街へ戻っていくのではないかという微かな期待が籠められていた。


現実は現在の市民がよく知っている。
今ではその昔を偲ぶことすら難しいこの界隈は、今ひっそりと化石のように眠っている。いつか目を醒まされ再開発の波に呑まれる日も遠い未来ではないかもしれない。

2008年10月13日月曜日

柳城址


何年か振りに戸ノ上山へ登った。
年のせいで滝の観音からの近道はきつい。古くからある登山道、寺内から登った。
この登山道の途中には柳城址の碑がある。ここには城址がなかったという説とあったという説があるが、よく分からない。

あったと仮定しよう。
ではなぜここに城が築かれたのか。
猿喰城はその存在が明らかだが、そこに行くとここにあった理由がよく分かる。城は七つ石峠と鹿喰峠を睨む位置にある。ここに城があれば裏門司への道が支配できる事が一目である。
しかもどちら下るにも容易である。一変への対応ができる。

しかし柳城はどうであろう。まずこの位置がどこなのかよく分からない。周りの木々が視界を塞いでいる。想像するに鹿喰峠を睨む位置にあると思われるが、それもよく分からない。峠道へ降りる道はあったのか、それも定かではない。
もうひとつ理由を挙げれば猿喰城を牽制するためだったのかもしれない。
結果的にこれは史実として明らかになったが、果たしてそのために築城したのか。
理由もなく城を築く暇があったとは思えない。


碑の裏側には「昭和三十年四月吉日 六六会建之」とある。この頃は門司も大里も郷土史が盛んであった。先人たちの熱い想いが伝わってくる。

2008年10月8日水曜日

もうひとつの大里宿


かつてここが花街だったと感(わか)る人はいるだろうか。大里宿跡から一本山手の裏通り、旧東八坂町である。

江戸時代、宿場町として賑わったこの界隈は、明治、大正度に工場の町として生まれ変わった。昭和一ケタの最盛期には百数十人の芸妓が数十軒の置屋に身を置き、二十数軒の料理屋を得意としていたとは古新聞の謂々である。
門司より少ないとはいえ、この狭い界隈でこの密度はあまりにも濃い。客は官吏、そして当時栄華をほしいままにしていた鈴木商店とその甘い香りに誘われた取り巻きたちであったという。

時代は下り、戦争、駅の移転とやがて街から色は褪せていった。昭和十九年、ついに大里券番は店を閉め、置屋は廃業していった。いつしか労働者の町となりその労働者も姿を消した。

しかし今でもひっそりとした路地を覗けば、三味の音(ね)が流れてきそうな風情がある。歴史の温もりが肌に触れた時、何もない街に情趣が香る。艶のある女性は年をとっても色っぽい。

2008年6月5日木曜日

おぼえがき











丸山の火葬場
昭和10年→昭和12年が正解。

山水園 (稲増さん)ちちぶ屋という呉服屋の娘。山田屋にあった。

門司港郵便局の斜め前 鶴原薬局 若松から門司に教会をもってきた。
明治26年 門司にバプテスト教会が初めて出来る。
鶴原氏 若松では石炭商


門司の不思議
石田平吉の墓未だ分からず。
アヘン、麻薬の話が出てこない
大長組の資金提供者は誰

崇聖禅寺 古い仏像 発掘 朝鮮系の仏像

門中10回生 深海某 「光る壁」 内視鏡発明者 白壁某門中12回生 千葉大教授が手伝う


甘粕正彦


戦時中
李香蘭の給料 250円
教員免許を持った教師 80円

2008年3月21日金曜日

掃海


終戦直後の関門海峡は機雷によって完全に封鎖されていた。
港が生命線である門司にとって、いかにして港を再開させるかが最も重要な課題であった。

被占領国日本にとって、先ずはGHQへの陳情である。しかしGHQにとっては、横浜神戸の方がはるかに急務であった。

門司は旧日本海軍に掃海を頼むことにした。この当時旧日本海軍の掃海基地は吉見にあった。
責任者は田村久三元海軍中佐、旧日本海軍掃海部隊の隊長で、米海軍極東司令部からも重く見られた人物であった。


旧日本海軍の掃海部隊は多くの殉職者を出しながら、この危険な任務を遂行した。

しかしいくら日本が安全宣言を出しても意味がない。
日本は所詮被占領国であり、海峡は国際航路である。どうしてもアメリカ水路部の安全宣言(お墨付き)が必要であった。

門司は月に一度職員を東京のGHQへ派遣し、陳情を繰り返した。
アメリカは重い腰を上げ掃海作業を行った。これを仕上げ掃海といった。

そして昭和24年1月、西口(小倉側)から、同年10月、東口(瀬戸内側)からの安全宣言が出され、11月5日には砂津に於いて掃海記念式典が華やかに挙行されるに至った。

実質、掃海は殆んど日本人の手によって行われたのだが、アメリカとの結び付きを必要としていた時代であった。

2008年3月20日木曜日

旧英国領事館跡


昭和初期の「門司市街圖」に「英国領事館」とあるのはここのことである。が、場所が違う。また領事館といっても出張所であった。

明治36年4月1日に開庁式が行われ、以来船舶事務を取り扱った。


この出張所開庁に尽力した人物にホーレスナターという人がいる。
彼は御所神社の玉垣にその名が刻まれていることから、大里の文化に深い関心を持っており、また門司の景観を最初に憂た人物として記憶されるべきであろう。

彼はホームリンガーと深い関係にあったらしく、大里寺内にあった当時水無荘(すいむそう)と呼ばれていたホームリンガー支配人、ネール・ブロディ・リードの別荘を購入している。

この水無荘がまだネール・ブロディ・リードの持ち物だった時代、ここで21歳の藤原義江が父と対面し、和解した場所として特筆されてもおかしくない。

父は義江に欧洲遊学の資金を約し、これを機に義江は本格的なオペラ歌手として歩み始めることになる。
父は翌年急逝したが資金はホームリンガーから出された。将に絶妙のタイミングであった。


藤原義江の凄味は聴衆をつくったことである。謡と長唄の日本人に洋楽の素晴らしさを伝え観賞するまでに育てたのは彼である。
この凄さにはどんな天才も敵わない。

下関はもっと大切にしてもいいのではないだろうか。

2008年3月19日水曜日

醍醐


「醍醐」である。

竣工は大正6年と聞いた。中野真吾元門司市長の邸宅であったものを、現在の持ち主の先代が購入したらしい。

幾分建て増しがある。往時はもう少し庭が広かったであろうか。

家作は贅を凝らした造りであるらしい。岩田酒店と殆んど同じということから当時の門司の美意識の一端を窺うことができるかもしれない。

北側の部屋は現在は和室だが当初洋間であったと聞く。中野真吾の手際を感じる。

昔の大工にはある種美意識と見識があった。形は違っても贅の凝らし方は一途であった。
もし火事で焼けても寸分違わぬ家を造作出来たと謂う。もちろん設計図はない。


邸宅が買い取られてのち、料亭「醍醐」として営業を始めた。客は毎日新聞社の関係者に限られたという。社長が檜風呂が好きということで、豪華な檜風呂をこしらえたというエピソードが残っている。

2008年3月18日火曜日

料亭「三笠」


料亭「三笠」の跡です。

高松宮殿下はここを御常宿とし、三宜楼へ御はこびなされていたそうです。なにをされておいでだったのか存じ上げませんが、馴染みの芸伎(名前失念)がいらしたそうです。

御用船は接岸しませんでした。殿下は艀をお召しになり税関岸壁(今の合同庁舎の横の船溜)より御上陸なされた由。