2012年10月23日火曜日

雲のうえ 17



とにかく脱帽である。
すごいとしか言いようがない。
テーマ、デザイン、構成、編集、どれを取っても完成度が高い。
特に構成は、思わせ振りたっぷりの表紙のデザインから最後の「ぬくい」と言って抱きあう終わり方はセンスに満ちている。
「ぬくい」とは北九州の方言で「温かい(暖かい)」という意味で、温かい飲み物、食べ物や暖かい格好なら誰しも想像がつくが、抱き合って「ぬくい」は私にとって盲点だった。

すごいもうひとつは、平易な編集にある。
誰しも手に取り「はっ」と思わせるには平易でなければならない。それをよく知っている。客を捉える見事な編集である。
北九州は広く、古くから行政区域が違った街同士が一緒になって出来たため、その土地々々で固有の方言があるはずである。もしくはすでに滅びた方言があるはずである。参考文献からみても、編者はそれらを知り尽くしている。
が、それを無視している。
あくまでも旧五市に共通したであろう方言しか取り上げられていないし、同時代人が分かる方言しか取り上げられていない。
ふつうこうは行かない。
深く掘り下げたいのが人情であろう。詳しく調べたいのが人情であろう。
それを見事に切り捨てているところにプロの味が見える。
素人ほどうんちくだらけになる。ためにはなるが面白くはない。

方言の解説は最初の2ページだけにとどめ、編集者も余計な解説は一切ない。あくまでも客観的な視野に立っている。あるいは北九州を外から見た立ち位置にいる。
間違いなく北九州市民、もしくはここを故郷と思う人々の琴線に触れる。
キーワードは「懐かしさ」ではあるまいか。つまりターゲットは同時代で、深く北九州を知らないが何らかのかたちでここに関わった人たちであろう。そこに歴史のうんちくはないし、必要もない。

それでもひとつ難を言おう。
もともと雲のうえは飛行機の機内誌から出発した。北九州の魅力を全国に発信することが目的であった。
しかし、この号に限らず、最近の編集方針は北九州市民、もしくはここを故郷とする人たちが楽しむための冊子になっている。
北九州の魅力を発信するのであれば、北九州市民の嗜好や意見など無視したほうが良いのではあるまいか。
はたしてこの冊子で北九州を知らない人、興味のない人に興味を持ってもらえるだろうか。
彼らに「こんなことならうちにもあるさ」と思わせてしまえば、これはただの美しい冊子である。

2012年10月22日月曜日

関門海峡


関門海峡とは言うまでもなく下関と門司の間にある海峡である。
この名称は下関の「関」と門司の「門」を取って付けられていることもまた言うまでもない。海峡を挟む両岸の町の名前から付けられている。
あまりにも当たり前の名称ではあるが、面白いことに両岸の町の名前に由来する海峡というのはあまりない。
津軽海峡、明石海峡、鳴門海峡など、どちらかの町、あるいは旧国名が付けられている方がはるかに多い。
そう考えてみると、関門海峡という名称はちょっと異質なことに気付く。もしかしたら随分新しい名前ではないかと想像したくなる。

関門海峡と呼ばれる以前は何と呼ばれていたのだろう。
ここに一八七〇年にフランスが作った海図がある。これには「détroit de simonoseki(下関海峡)」とある。同じ時期に作成されたイギリスの海図も「simonoseki strait」である。
つまり幕末から明治にかけて、この海峡は外国から「下関海峡」と呼ばれていたことが分かる。
1870年フランス海軍作成の海図
1872年イギリス海軍作成の海図


それでは日本の地図ではどう書かれていたのかと調べてみると、明治三十三年陸軍測量部が作ったこの辺りでは最初の地図には赤間関海峡とある。
海軍水路部が明治十九年に作った海図では、長門海峡と書かれてある。
明治度には日本でも外国でも関門海峡とは表記されていない。
明治三十三年日本陸軍測量部

明治十九年日本海軍水路部


では関門海峡と地図上で表記され始めたのはいつなのだろう。
調べてみると大正十四年の陸軍測量部の地図で初めて関門海峡と表記されていた。
つまり「関門」という名称を使い始めたのは、明治二十二年創業の関門汽船の方がはるかに早いのだ。

大正十四年日本陸軍測量部


民間に至ってはもっと遅い。これは小学校と旧制中学校の副読本の地図であるが、昭和になっても下関海峡の表示である。
昭和七年小学日本地図
大正十五版最近日本地図


同じく洞海湾はクキノウミと読み仮名が振ってある。
昭和七年小学日本地図2


実は海図ではつい最近まで下関海峡という名称であった。

海図で関門海峡と表記されたのは昭和39年の海図からで、国際的にもこの時代まで下関海峡と呼ばれていたのである。


もちろん下関海峡も長門海峡もそれほど古い名称ではない。
古くは早鞆瀬戸、大瀬戸と呼ばれ、この名は今も現役である。

この海峡を門司では古くから硯の海と呼んでいた。
筆立山に対する硯の海という優雅な名称である。失いたくない名称のひとつである。

2012年8月2日木曜日

ブックレット



 見ようによってはゴミの山である。しかしゴミの山から一粒の宝石を見つけることも読書人の楽しみのひとつではないだろうか。

日本人はカタカナ語に弱い。いつの頃からか小冊子のことをブックレットと呼ぶようになった。
学芸書を出している出版社なら広報用の小冊子を出しているところが多い。岩波書店の「図書」、筑摩書房の「ちくま」などがそれである。
広報誌なのに定価がある。本屋では華客(おとくいさま)にはタダで渡す。定価のある物がタダでもらえると客は嬉しい。
狙いはそこだろう。
売れる必要のない雑誌だからなのか制約が感じられない。制約があるとすればページ数だろうか。節約のために目次を表紙にしているものもある。目次も装丁の一部なのだ。
どの小冊子も文学・芸術・産業など内容の幅は広く多彩で、随筆もあれば対談もある。もちろん書評然りであり執筆人も豊富である。
中には難しい話題もあるが、みやび出版の「myb」は、肩肘張らずに読める。小冊子ではないが、福岡には「はかた版元新聞」というチラシがあり、地方出版界の活動が手に取るように分かる。
はかた版元新聞
広報誌とはいえ版元にとっては新しい執筆者の筆力を試す場であるのかもしれない。また世間並の話題を探る情報収集の場であるのかもしれない。そういう意味では実験的でもあり、読者にとっては魅力的な本との出会いの場になり得るだろう。講談社の「本」は「読書人の雑誌」(うた)っている。
また世上の話題から生活にかかわりの深い問題まで、好奇心をそそる内容は総合雑誌以上に面白い。当世の時流を探るには最適な資料の一つであり、過去の話題を読み解く絶好の資料にもなり得る。
こういう冊子を眺めていると、出版社で働くということがどういうことか分かる気がする。編集者は編集という技術だけではなく、凄まじく幅広い人脈と見識眼が必要なのであろう。一流の営業マン以上に営業力がなければ務まらない仕事に違いない。

2012年5月4日金曜日

田野浦蛭子屋の遊女かね吉の作といわれる恋歌


早鞆の瀬戸より狭いぬしが胸
書きつくされぬ文字ヶ関

岸打つ波は城山の 袖に涙の雨が窪
ひとつそもじの大久保に

頼む田野浦一筋に ふみに迷うて山中の 
観音様に願かけて

身は楠原の川原に 恋にこがれて鳴く螢虫



早鞆の瀬戸は狭い。そして速い。
移り気する男心と掛けている。
往時、関門海峡のことを門司では硯海(すずりのうみ)と呼んでいた。
硯の中の海ほど狭く浅い海ということである。
硯に対して筆立山がある。そして門司硯。
なんとも優雅な名称ではないか。


文字ヶ関は門司ヶ関。
旧門司にあったと言われているが、一説には田野浦にあったとも言われてる。
いまだに比定地はない。
前説のよりどころは旧門司にツクシ、オウマヤ、ヤシキという小字があったということと、
近世、和布刈神社参拝には梶ヶ鼻辺りに船を泊めて参拝していたことから、流れの速い関門海峡で、古代でもこの辺りに船を泊めることが可能であったらしいということ。
崇聖禅寺がその役所跡と言われている。
下関の関所は前田に比定されてる。後説ではそこからの船便は田野浦が最も安全で近いという理由からである。



梶ヶ鼻



古城山とは「昔、城があった山」という意味で(あたりまえ)、つまり城があった当時は古城山とは呼ばれていなかった(これもあたりまえ)。
ではいつから古城山と呼ばれていたのだろう。
また古城山と呼ばれる前は何山と呼ばれていたのだろうか。

慶長二十年までここには現役の城があった。ということは江戸中期までは古城山とは呼ばれていなかったと思われる。
つまり江戸時代はただの「城山」と呼ばれていたのではないかとこの恋歌から推測できるのである。

古城山




雨が窪は今のめかり塩水プール、トロッコ列車の駅があるところ、大久保は旧食糧倉庫のある辺り。
慶応丙寅の変動は長州軍による田野浦への艦砲射撃で始まった。
艦砲射撃によって田野浦に駐屯していた小倉兵を足止めし、前夜大久保に上陸していた長州軍の奇襲により田野浦は一日で制圧された。
ああ、悔しい

めかり駅から明神の尾を望む
旧食糧倉庫








山中というのは田野浦と白野江の間にある村落である。
天和元年、小倉長浜に阿波からの亡命者が漂着した。彼らが住み着き開墾した土地が山中で、ここで産出する石から門司硯が作られた。近代、大正天皇にも献上された由緒ある硯であった。
彼らが阿波から携えてきた観音像は、海上安全には霊験あらたかのため、田野浦に寄港する船乗りたちの信仰を一心に集めていた。
高田屋嘉兵衛奉納の花瓶も現存している。
今も彼らの子孫が年に一度この観音像をお祭りするためにこの地へ集まる。
絶えてほしくない風習である。

山中観音の厨子


楠原村の疆域は白木崎葛葉から旧門司1丁目の半分くらいまで。
その昔、きれいな小川が幾筋も流れ、水の豊富な村だったことは戦前の門司古地図からも想像できる。
また港町としての条件の一つとして。清水が出ることは重要であった。
今はほとんどが暗渠になりその面影はないが、ホタルがたくさんいたのであろう。
潮騒と小川のせせらぎが聞えてくる静かな村落が想像される。



この恋歌が田野浦の遊女の作であるかどうか、今となっては詮索不可能である。
むしろ詮索は不要であろう。
重要なことはこの恋歌が遊女の作かどうかという事実ではなく、田野浦の遊女が作った歌と信じられていたということではないだろうか。
この恋歌は田野浦遊郭の看板であった。

田野浦聖山天満宮跡


遊郭というきらびやかな世界も一枚めくればそこは単なる肉の売買である。
世間でもっとも蔑まれた商売であることは疑いもない。
その商売に格式を設け、権威をつけることによって客は憧れを持つ。夢を見るのである。
この商法は現在でも有効であろう。

その昔、田野浦の遊郭には情が篤く教養の高い遊女がいた。そしてそれが船乗りたちの憧れであった考えるだけで当時の田野浦の隆盛が眼に浮かぶ。
船乗りたちの無邪気な笑顔が眼に浮かぶのである。

2012年2月6日月曜日

元治元年八月

元治元年八月、四カ国連合艦隊の砲撃によって壊滅した長州藩は高杉晋作を全権として講和条約に臨む。当時は「声明」もなければ「マスコミ」もない。対岸で固唾を呑んで見守っていた小倉藩はあまりにものん気な方法でそれを知った。
小倉藩は「最近静かですがどうしてですか?あの白い旗はなんですか?」とフランス軍艦に聞きに行っている。ここに同じ日本人でありながら直接長州 藩に聞きに行けない「藩」と「藩」との微妙な関係が見て取れる。ついでにこの時、「小倉藩のことは長州には内密に」と念を押していることには笑った。フラ ンス軍曰く、「長州藩から宍戸備前養子行馬(高杉晋作)年齢40位が全権として講和に来ている。」と。当時高杉は24~5歳。どうやら西洋人は東洋人の顔 を見ただけでは年齢が分からないらしい。昔、私の嫁さん(当時30歳)は17歳と言ってアムステルダムの美術館にタダで入場したことがある。イギリス人、 フランス人はたぶんその人の物腰とか態度雰囲気でおよその年齢を推測したのだろう。「若い」と言われて嬉しがる現代人は高杉にはなれないということであ る。ちなみにこの宍戸行(刑)馬について小倉藩は何の詮索もしていない。

扨、じゃあこの大スペクタクル(今も昔も対岸の火事ほど面白い見世物はない)を面白がって見物していた門司の住民は。
当時の見物人の聞き取りがある。「活牛を船に運び入れるのを見て長州が負けたことが分かった」とある。少ない情報でも的確に事実を把握している。情報量の多寡、学問の有無は関係ない。頭でっかちの現代人には耳が痛い。
それにしても当時、船で働くコックは生きた牛を捌く技術も必要だったとは。きっと生きた豚や羊も積んでいたことだろう。ご苦労なことだ。

面白いことに、この時門司から小船を漕ぎ出し軍艦に乗り込んだ人がいる。目的は何だったのかは分からない。小倉側の資料(全部見たわけではない が)には、住民を徴用したという記録は見当たらなかったが、徴用が日常であるならばわざわざ書き留める必要はない。商売や遊びで軍艦に行ったとは考え難 い。もし商売なら密輸である。だた、「初めて葡萄酒を飲んだ。」とか「子どもには糸を通したパンを首からかけて土産にもらった」といったことが古老の話と して残っている。徴用された下働きに酒を飲ませ、土産を与えて媚を売る必要があったのだろうか。「子どもが行った」ということは子供も労働力だったという ことか。

中山主膳他編 『門司郷土叢書』 国書刊行会 1976

2012年1月31日火曜日

みなとだより


「みなと」という漢字は二通りある。
「港」は船が集まるところという意味であり、「湊」は水上の人が集まるところらしい。
つまり「みなとまち」は「湊町」と表記する方が筋目がよろしい。

そこに「みなとだより」という名称は妙味がある。


ちょっと秀逸である。

社団法人日本港湾協会が発行している、ちょっとマニアックな港の魅力満載の小冊子である。
たまたま手にしたのは2007年発行でずいぶん古いが、特集が「いま、地方の港が元気です」だった。


港湾といえば港湾施設を連想する。あらゆる物が行き交う物流の拠点である。しかしそれは港の一面にすぎず、生活に密着した大小様々な港があり、それらの港が日々の生活を支えているということを分かりやすく表現している。
たとえば土生港、一日の入港船舶数は200便以上、その9割がフェリーというから驚きである。
島嶼にとって航路はまさに生命線である。船はバスであり電車であることを実感させてくれる。
このような生活に密着した港は日本各地にあるのだろう。



地元門司港の特集があるかと探したら、「みなとがつくる美しい景観」という特集の中に門司港があった。2004年Vol.44と言うから、これまたずいぶん古い。

中に曰く、「もちろん歴史的建造物も重要な要素ですが、大切なのは関門海峡を取り巻く自然です。自然景観というものは、決して人を飽きさせません。施設に加え、自然景観をいかに採り入れるかということも、事業を進めていく上でとても重要視しました」

その通りだと思う。この時期に歴史以上にすばらしい関門の自然景観に着目している人がいた。
門司のシンボルである門司港駅が近々長期に亙る改修工事に入る。門司を単に歴史の街と捉え、これを観光資源と考えている人々にとってこれは恐怖であろう。
しかしもっとすばらしいものがこの港町にはあることをこの冊子は教えてくれている。

港は生き物である。変化は当然起こりうる。その変化を受け入れ楽しめることが大切ではないだろうか。

2012年1月11日水曜日

手紙の書き方

実家で明治時代の「手紙の書き方」の本を見つけた。「福岡広業編『普通広益明良用文』玉淵堂
明治15」である。表紙、後半は欠落し崩壊寸前であり、古本屋へ持ち込んでも価値はないだろう。昔故山本夏彦氏が読んでみたいと書いてあった「恋文の書き方」はさすがにない。しかし現代の「手紙の書き方」には載っていない様々な例文がある。

退屈だけど一例を挙げる。
年首の文
新暦の禎慶四海同風芽出度く申収め候潭府各位益ご清福被成御越年恭賀に候次に茅屋無異迎歳仕り候間乍憚(はばかりながら)御放神被下先は履新の祝壽まで余は期永陽之時候恐惶謹言

もう一つ
新婚を賀する文
小槧呈上致候 今般良媒の関に依り御婚儀万端相整い候由 御両親始め千曜万福目出度賀し奉候 依之倶白髪(酒の名前)一樽賀慶之験までに呈備仕候 謹言

行書で書かれてあり変体仮名が使われているので現代人には甚だ読みにくい。明治大正度の人たちにはこれが読めたのだろうか。
識字率は別として、たぶん読めたと思う。逆に活字の方が読めなかったのではないか。
今実家には大正度の我が家の家計簿と、同じく大正3年の高知県立第一中学校の教室日誌があるが、いずれも行書、変体仮名で書かれている。そして文末に付ける「候」は「ゝ」、「ヽ」と記されていることから、句読点のない時代、「候」は句読点の役割を果たしていたことが伺える。活字で「候」と書かれると、何のことかさっぱり分からなかったのではないか。また行書、草書で書かれてあっても、例えば文頭に来る「一筆啓上仕候」などは、ひとつの模様、デザインとして覚えていれば何のことはない。いくつかの模様が繋がって一つの文章になる。

文語の時代、手紙、文章は定型文であったから、いくつかのフレーズをコピー&ペーストすればどんな文章もたちどころに書くことができたはずである。文章を書くことが億劫ではなかったのではないだろうか。現代のように「好きなように書けばいいのよ」と教えられると逆に困る。私も小学校での作文の時間が苦手だったし、今でも苦手である。現代の国語教育が手紙文化を葬り去ったと私は思う。

さて内容を見ると、観蓮、看梅、観月、紅葉遊覧など季節の楽しみを誘う文、その返書が多い。
「新聞配達を頼む文」、「医師を招く文」などは今なら電話で済ます。これらは下男に手紙を持たせ走らせたのだろうか。自ら行くなら口頭で済む。
「年首の文」、「新婚を賀する文」、「死を報ずる文」、「悔やみの文」は今でも使えそうだ。
その気はないけど、とりあえず出さなきゃいけない人にはもってこいである。
「見舞い」「挨拶」「御礼」には必ず「手土産」云々とある。手紙と一緒に祝儀、土産は必需品だったようだが、今でも招待されると手ぶらは行けない。今は「金」だが昔は「酒」「季節もの」が多かった。それだけの違いである。
「今晩の納涼」の誘いを手紙で書いていたようだが、当時は一日数回も配達があったらしい。これは漱石の日記や手紙で何となく察しがつく。

手紙の他には役所への願書、届出の書き方がある。今では書式に則った所定の紙の所定の欄を○で囲むかチェックを入れ、自著とハンコで事足りるが、昔はそんなに便利ではない。
「営業願」、「商社願」の他に、「相撲興行願」や「変死人引取り願」といった現実離れした例文もある。

しかし大正度までは、相撲はどこでも盛んだったようで、門司の各村には代々受け継がれた名乗りがあり、各村々での大会、村対抗戦も行われていた。白野江では「沖の石」、「曙」、葛葉では「風師山」、田野浦では「走り船」などが代々の名乗りであった。
また明治7年の大里での相撲興行願が残っている。「例年通り」とあるから相撲は最大の娯楽のひとつであったのであろう。我が家の家計簿にも「相撲花」と書かれてある。これは相撲大会の祝儀であろう。
変死や行き倒れが多かったことは、今では想像つきにくいが事実だったようだ。古老に聞いたところ、農村には池が多く、年に数回は池に水死体があがっていたらしい。

届出では「出産届」、「死亡届」などあるが、本文が欠落しているので内容が分からない。このあたり、役所への届出は草書ではなく楷書で書かれてある。

以上は男性用の「手紙の書き方」である。実は女性には女性用の「手紙の書き方」があった。一葉女史の「書簡文範」がそれである。

退屈の極みだが一例を挙げる。
年始の文
改りぬる年の初めの御壽かど松の色かはらぬためしに申納め候御夫婦様はじめ誰君(どなた)様にも御揃ひ御のどやかに御年迎へ遊ばされ候御事いといと嬉しく存じ候此方(こかた)みなみな事なしに齢一つとり重ね候間御心安う思し召給はり度こぞは誠に思ひのほかの御疎々しさ去りどころなき罪のほども年立つやがて御目もじにて御詫び申上ぐべきを猶来客などのあわただしさに紛れて文にての略儀おぼしゆるし給はらば辱(かたじけな)く候此品ことなる事もなきを御年玉のしるし許(ばかり)にとぞ何も申延べ候てかしこ

無味乾燥な男の手紙との違いが一目瞭然である。
言い訳が美しすぎる。甲斐がいしく働く女性の姿が目に浮かぶ。どんなミスでもこんな始末書を出されたら許してしまいそうだ。

この「書簡文範」には男には書けない(というより男は書いちゃいけない?)様々な文例がある。
「徴兵に出たる人の親に」とか「出産の祝いの文」は思いやりと慈しみに溢れている。
女史の文才は文字から滲み出てくる美しさと優しさにある。これを口語訳で読んで面白いはずはない。