2013年7月6日土曜日

「街の手帖 池上線」

出版文化は東京の特産品とはよく言ったもので、このような面白い小冊子が次々発行されるところに、東京の魅力があるのではないかと思うのです


日本の出版社の8割が東京にあり、古本屋の8割が東京にあるといった理由だけではありません

池上線というのは全長10.9kmという短い私鉄です
決して観光地ではありません
洗足池以外にこれといったランドマークがあるわけではありませんが、その短い沿線にいろいろな物語が眠っています
これら物語を掘り起こし、それを小冊子という形で情報発信する力量は想像以上のものでした
ひと言で言ってしまえば、とても楽しい雑誌です
自宅から駅まで、バス停までの数分を大切にしたくなる雑誌です


送っていただきました
内容もさることながら、送り状が神楽坂山田紙店製の原稿用紙に万年筆の手書きという凝りようがなんともいえません
職人なら良い道具を使いたいのが人情です
ペンも原稿用紙も道具であるならば、こういう原稿用紙にペンを走らせてみたいと、文筆家なら誰でも思うでしょう

「街の手帖 池上線」は、デジタル全盛の現代で、こういった道具にこだわる職人の作っている雑誌なのです

2013年4月7日日曜日

巌流島の決闘?


まずは安永五年(1776)に書かれた「二天記」という、もっとも有名な武蔵の伝記から
「(小次郎)刀を真中に振りかざして武蔵が眉間を打つ、武蔵も同じく打出したるに、その木刀早くも小次郎が頭に当たり手、立所に倒れぬ。・・・小次郎伏しながら横に払ひしかば、武蔵の裾の膝の上に垂れたる処、三寸ばかり切りさきぬ。その時、武蔵が撃ちたる処の木刀に、小次郎が脇腹横骨折られて、全く気絶し、口鼻より血流れ出づ。
武蔵木刀を捨て、手を小次郎が口鼻に覆ひ、顔をよせて死活を伺ふこと暫時なりしが、やがて遥かに検使に向って一礼し、起ちて木刀を把り、本船の方へ行き、これに飛乗り、棹夫と共に棹さして速に下関にかへれり。」

超訳します。
「武蔵はボカッと一発小次郎の頭に木刀をかました。小次郎は倒れたまま刀を横に払うと武蔵の袴のすそを三寸ばかり切った。武蔵は止めの一発を脇腹にかますと小次郎は血を流して倒れた。武蔵は生死を確認するとさっさと帰っていった」

ほぼ伝説(小説)に近い筋で、巌流島の伝説はほぼこれに沿っているといえますが、
同じ「ニ天記」にはちょっと違ったことも書かれています。
「・・・小次郎との勝負決したけれども、武蔵止めを刺さずして倉皇として(あわただしく)退き去れるは何ぞや・・・」
つまり武蔵は止めを刺していない。
おや?

古川古松軒による「西遊雑記」には
「赤間関にて土人の云伝へを聞きしに、板本に記しあるとは大に異なり、佐々木武蔵之助と約をなし、伊崎より小船をかり舟島へ渡らんとす。浦人とも岩龍を止めていふは、武蔵之助は門人を数多引具して、先達て舟島へ渡れり。大勢に手なしと云ふ事あれば、一人にては叶ふまじ。今日は御渡海無用なりと云。・・・浦人のいひしごとく、門人の士四人与力して、終に岩龍討る。」

てきとうに訳すと、「土地の漁師は『武蔵は子分をたくさん引き連れて先に舟島へ渡っとる。今日は止めとき』と言ったけど、小次郎は行ってついに討たれた」
つまり武蔵と4人の弟子で小次郎一人をボコボコにした。

そして「武将感状記」(ぶしょうかんじょうき)という正徳6年(1716年)に刊行された記録には、
「・・・下ノ関ノ者ども不残囲ミテ見物ス。武蔵二刀ヲ組テカカレバ、岸流拝ミ打ニ斬ル処ヲウケハズシテ其頭ヲ打ツ。岸流身ヲフリテ左ノ肩ニ中ル。其勢ニフミ込ミテ横ニ払フ。武蔵足ヲ縮メテ飛アガレバ、皮袴ノ裾三寸バカリ切テ落タリ。武蔵全力ヲ出シテ之ヲ打ツニ、頭微塵ニ砕テ即座ニ死ス。」

口語訳はどうでもいいとして、ここで気になるのは「下ノ関ノ者ども不残(のこらず)囲ミテ見物ス。」です。下関の者どもというのは武蔵の弟子でしょう。つまり武蔵は一人ではなく弟子を連れて来ていた。


上記は巌流島の決闘からずいぶん時を経て書かれたものですが、当代の記録にはまた少し違ったことが書かれています。

「・・・双方共に弟子一人も不参筈に相定、仕合を仕候処、小次郎被打殺(うちころされ)候。小次郎は如兼(かねてのごとく)弟子一人も不参候。武蔵弟子共参り隠れ居申候。其後に小次郎蘇生致候得共、彼弟子共参合、後にて打殺申候」

これも超訳すると、「双方とも弟子を連れて来ない約束をしたにもかかわらず、武蔵は弟子を連れてきて隠れていた。武蔵が一発かました後、蘇生した小次郎を武蔵の弟子たちはボコボコになぶり殺した」ということです。検使がいたはずなのに・・・?

これは「沼田家記」といって、細川藩家老で門司城代であった沼田延元が残した記録を子孫がまとめたもので、延元は決闘当時の生き証人であり、信憑性が高いといわれています。

それにしても、当時の巌流島は今の3分の1くらいの広さしかなく、弟子を隠すことは不可能です。彦島に弟子待という地名がありますが、ここで待っていたのかもしれません(確か武蔵の弟子が待っていたから「弟子待」だとか)。


こうやってみてみると巌流島の決闘はただの決闘ではなさそうです。

2013年3月21日木曜日

与次兵衛塔物語



明治19年日本海軍水路部作成の関門海峡海図

「関門海峡には無数の暗礁砂州が横たわった上、汐流が迅速なるがため、古来通峡の船舶の遭難せるものが極めて多かった。
 此等遭難者の中、尤も名高いものの一つに、文禄元年太閤秀吉が、肥前名護屋より小倉を経て帰阪の海上、大里沖に於いて御座船の船頭与次兵衛が針路を誤りて暗礁に触れ、之がため責任を感じて切腹したと云う悲愴な事件がある。
 此暗礁は大里沖にありし篠瀬(しのせ)のことである。瀬は東北より南西に亘り、長さ四十八間余幅八間余、退汐の時には礁頭四三間程も現したと云う。」(日本地誌)
1870年フランス海軍作成の関門海峡海図

慶長五年、細川忠興豊前入部の後、此の礁上に塔を建てしめ、与次兵衛追悼の意を寓し、船路安全の目標とした。
 「篠瀬」を「死の瀬」と書き換えられる程の海峡の難所は、爾来与次兵衛瀬と呼ばれるようになった。

与次兵衛は家世々播州明石に住し、通り名は代々明石四郎を称していた。
 秀吉が播州に攻め入った時隷属し、その時、石井姓を賜っており、俗に明石与次兵衛と伝わっているが、秀吉の海峡遭難当時は石井与次兵衛と名乗っていたはずである。
 かなりの大集団を率いての帰属だったらしく、賤ヶ岳の合戦で活躍した明石与四郎則実も一族の一人と伝えられている。


 明石という地理的な要因から、古来より野島、久留島など、瀬戸内の島々を拠点、あるいは連携し、関銭を徴収したり、付近で海戦があれば、傭兵として参戦する、いわば海賊であった。
 また、遠く明(みん)まで出張り、貿易をしていたというから、倭寇をも生業(なりわい)としていたのである。
 明石一族は瀬戸内きっての操船術、造船術をも持ち合わせていたばかりではなく、貿易で蓄えられた富と水軍の知識に不足がなかったに違いない。
 太閤の御座船といえば、近代海軍でいうところの聯合艦隊旗艦に相当する。与次兵衛がその船頭、すなわち艦長という重要な任務を担っていた理りは、これによって十分知れる。
 更に、秀吉から重用されていたことは、石井家文書の中の秀吉直々の書簡から明らかである。

 「太閤記」にあるように謀反を企んでそれが露見し、罰を被ったのであれば、その時一族諸共断罪に処せられていたはずであるが、その形跡はなく、それどころか秀吉は与次兵衛切腹後、石井家の行く末を按じている。

 与次兵衛の子が女子ばかりだと聞くと、与次兵衛の甥、助太郎を養子として迎え、家督を相続する由、命によって継がしめた。
 助太郎は、慶長元年、伊勢山田の合戦で戦死する。その戦死が若年であり、実子の与次兵衛がまだ幼かったため、助太郎の弟、与八郎が跡を襲った。

 与八郎は豊臣家の滅亡まで忠誠を尽くした。
 大阪の陣に於いては、籠城はしなかったものの、外部より援助を惜しまなかった。
 落城後は、一族や友人、旧家来を頼って潜伏を続けたが、探索は段々と厳しさを増し、当時明石に封ぜられていた小笠原忠真公は、詮議を重ねた結果、与八郎は弱年でもあり、これといって害もなかろうということで、これを召抱える。
 そして運命のいたずらか、小笠原家は後に小倉へ移封され、石井家は、十八石四人扶持をもって、ここ与次兵衛遭難の地に幕末まで永らえた。

 尚、助太郎実子与次兵衛は、与八郎と同じく小笠原家へ御奉公するも、まもなく早世し、その跡は絶えた。


 小笠原家が石井氏を召抱えた理(ことわり)を按ずるに、江戸幕府は黎明期であり、まだ動乱が収束したとは言いがたい時期であったため、明石の名族を懐柔することによって、封土を安寧せしめようとしたのか、もしくは一族の伝える海賊流軍学が欲しかったのか、時は流れ、亨保度に響灘で繰りひろげられた抜荷船打払いには大いに活躍したことだろう。当時の資料に、明石与四郎俊英の名が見える。


 慶長五年に初めて建てられた石碑は、風潮や船の衝突によって、幾度となく破損せられ、幾度となく再建された。
 江戸期を通じ、この海の難所であり続け、また名所でもあった与次兵衛ヶ瀬は郷土で語り継がれていたことは言うに及ばず、通峡する旅行者の紀行文に上せられることで、遠く海外へも知れ亘った。

 明治以降、海峡を航行する船舶の頻なるをもって、大正元年より六年の歳月を掛け、内務省土木出張所(後の九州地方整備局港湾空港部)の手により、与次兵衛ヶ瀬は除却された。
 この時まで瀬上に屹立していた石碑は、海中へ打ち捨てられたが、昭和二十九年三月五日、門司郷土会有志の手により、こっそりと引き上げられ、現在古城山の麓に安住の地を見出している。

 また、与次兵衛切腹の地には、村人の手によって、松が植えられ、墓が建てられていたが、いつしかその墓も失われ、今は知る人さえ稀となった。


 与次兵衛瀬最後の塔は、明治二十三年十一月十五日に竣工したもので、高さ二十六尺、石造円形にして紅色で彩色を施され、無等紅色の灯器装置を資するものであった。
 それ以前の塔、明治度には立標と称してたが、この塔は無灯立標にて、明治四年に建立されたというが、この立標についての大きさや、形が記されている資料は、まだ確認していない。

 もし、古城山に安置する立標が明治二十三年建立によるものであるならば、石塔に紅色の痕跡や、灯器装置の痕跡があるはずであるが、それを見出すことはできない。
 はたして何時の時代の与次兵衛塔であろうか。