2012年2月6日月曜日

元治元年八月

元治元年八月、四カ国連合艦隊の砲撃によって壊滅した長州藩は高杉晋作を全権として講和条約に臨む。当時は「声明」もなければ「マスコミ」もない。対岸で固唾を呑んで見守っていた小倉藩はあまりにものん気な方法でそれを知った。
小倉藩は「最近静かですがどうしてですか?あの白い旗はなんですか?」とフランス軍艦に聞きに行っている。ここに同じ日本人でありながら直接長州 藩に聞きに行けない「藩」と「藩」との微妙な関係が見て取れる。ついでにこの時、「小倉藩のことは長州には内密に」と念を押していることには笑った。フラ ンス軍曰く、「長州藩から宍戸備前養子行馬(高杉晋作)年齢40位が全権として講和に来ている。」と。当時高杉は24~5歳。どうやら西洋人は東洋人の顔 を見ただけでは年齢が分からないらしい。昔、私の嫁さん(当時30歳)は17歳と言ってアムステルダムの美術館にタダで入場したことがある。イギリス人、 フランス人はたぶんその人の物腰とか態度雰囲気でおよその年齢を推測したのだろう。「若い」と言われて嬉しがる現代人は高杉にはなれないということであ る。ちなみにこの宍戸行(刑)馬について小倉藩は何の詮索もしていない。

扨、じゃあこの大スペクタクル(今も昔も対岸の火事ほど面白い見世物はない)を面白がって見物していた門司の住民は。
当時の見物人の聞き取りがある。「活牛を船に運び入れるのを見て長州が負けたことが分かった」とある。少ない情報でも的確に事実を把握している。情報量の多寡、学問の有無は関係ない。頭でっかちの現代人には耳が痛い。
それにしても当時、船で働くコックは生きた牛を捌く技術も必要だったとは。きっと生きた豚や羊も積んでいたことだろう。ご苦労なことだ。

面白いことに、この時門司から小船を漕ぎ出し軍艦に乗り込んだ人がいる。目的は何だったのかは分からない。小倉側の資料(全部見たわけではない が)には、住民を徴用したという記録は見当たらなかったが、徴用が日常であるならばわざわざ書き留める必要はない。商売や遊びで軍艦に行ったとは考え難 い。もし商売なら密輸である。だた、「初めて葡萄酒を飲んだ。」とか「子どもには糸を通したパンを首からかけて土産にもらった」といったことが古老の話と して残っている。徴用された下働きに酒を飲ませ、土産を与えて媚を売る必要があったのだろうか。「子どもが行った」ということは子供も労働力だったという ことか。

中山主膳他編 『門司郷土叢書』 国書刊行会 1976