2011年8月29日月曜日

長谷


大正度の地図を見ると、この辺りに街といえるものはない。

昭和一ケタでさえ田畑ばかりだったとは古老の謂いである。
明治度、石田平吉はこの辺りに浄水池を穿ち、上水道事業を起こしたというが、その形跡すら既にない。
俗に「長谷の首切り風」という強風が吹き荒れ、川端通りに流れ込む小川のせせらぎが聞こえるだけの寂しい谷だったに違いない。

軍道通り


長谷と言えば軍道通りが知られている。
幅9尺というから3m足らずの細い道路であった。
軍道通りの突き当たりには、門司庭球場があり、そこはかつての弾薬庫で、弾丸の運び入れ、運び出したのがこの通り名の由来である。

その昔、老松公園は陸軍兵器工廠でノーフォーク広場には海軍兵器工廠があった。
東門司の長屋は今も軍隊長屋、兵隊長屋と呼ばれている。
軍道は門司が軍都であった名残なのだ。



門司が貿易で繁栄するにつれ、長谷は高級住宅地に生まれ変わった。
すぐそばには芳翠園という料亭があり、テニスコートを含め、上流階級の社交場でもあったのであろう。
しかし少し田野浦方面へ足を運べば沖仲仕が暮らした長屋があり、往時は貧と富が入り交じる不思議な界隈だったのかもしれない。今は想像するしかない。
そして富人の邸宅と料亭は更地になり、沖仲仕が暮らした長屋は今なお健在という、今も不思議な界隈である。

昔は「嫁貰いは長谷から」という言い伝えがあった。きっと美人が多かったのでだろう。
そういえば昔、この辺りにとびきりの美人が住んでいたことを想い出した。

2011年8月13日土曜日

掃苔

趣味でお墓参りをすることを掃苔と言う。文字通り苔を掃(はら)って彫りを鑑賞することである。


区画整理などで昔墓地だったところが道路や宅地になる時、公共墓地に回向することがある。

門司、大里では城山公園にその塋域がある。庄司の地蔵寺には田野浦の遊女の墓が回向されている。また大里の西生寺、廃寺である静泰院跡にも多くの無縁墓がある。

楽しむところはいくらでもあるのである。

有名な人の墓ならともかく、こんな田舎では無名の墓ばかりである。
それでも観ようによっては面白い。

無縁墓の中でも、門司のものは明治大正のものが多く、石や彫りが立派なものが多いのが特徴である。生前の羽振りのよさは想像に難くない。しかしいくら立派な墓でも、100年も経たないうちに無縁になるとは、故人には思いもよらなかったに違いない。

大里の墓は江戸期のものが多い。200年以上昔の墓もある。
俗名には苗字がなく、名だけである。如何にもありふれた農民の墓である。職人の墓には職種を刻んである場合もある。

昔自然石の墓は行き倒れの墓であった。しかし回向された墓のほとんどはきちんと加工された墓石である。小さくても埋葬してくれる親族があり、世間並の生活を営んでいたのであろう。

一般に江戸期の庶民には真宗が多い。戒名を看れば門司六郷も同様であったことが窺える。浄土宗ならば少し余裕のある家柄であったのかもしれない。

院号があり苗字があれば武士である。俗名が屋号なのに院号が刻まれた墓石もある。もしかしたら寺に多額の寄進をしたお大尽かもしれない。明治以降ならば戦死であろう。
居士号ならば禅宗だろうか。武士には禅宗が多いと聞く。

墓の大きさや戒名から彼等の生活を想像するにはもっといろいろな知識が必要である。あればもっと面白いに違いない。


2007年11月23日 mixiの日記より