2010年5月9日日曜日

響灘奇譚3

享保五年(一七二〇年)四月九日(五月十五日)、老中井上河内守は小倉藩主小笠原右近将監を役宅へ招き、一通の密書を渡した。右近将監は長崎奉行石河土佐守、大坂町奉行北条阿波守、さらに長州、筑前の江戸家老を小倉藩上屋敷へ招き、この密書について協議を行った。次に小倉藩用人野島要人に御用の次第を演(の)べ「帰国の途、大坂町奉行所へ出づべし」と命じた。
四月二十七日、野島は大坂町奉行所へ出頭、町奉行鈴木飛騨守より先生金右衛門、久保甚左衛門、播磨屋又兵衛の三人を引き渡され、同道帰倉するよう申し渡された。先生(シャンスイ)金右衛門は幕府の「目明し」として第二の人生を歩むことになったのだ。時に三十代前半の働き盛りといわれている。
滞在期間は六十日、大坂で二十両の軍資金が渡された金右衛門は小倉に着くと各藩の重役たちと何度も密談を重ねた。按ずるに、話は容易に進まなかったに違いない。「なんともいたしにくき事共多く有之候由(これありそうろうよし)」と当時の資料は語る。公儀の御用とはいえ金右衛門は元罪人である。士(さむらい)に対し難しい立場にいたことは想像に難くない。長筑両藩は早々この作戦から離脱し、「打ち払い」から「打ち潰し」へと激化することになる。

金右衛門は自ら船に乗り、海域の見聞を行った。沖買船は小倉から、加子は大阪より仕組まれた。事を隠密に運ぶため、抜け荷買いの品はなるべく多くの場所から少しずつ調えられ、その金は小倉藩より出された。中国人が最も抜きたがる「赤かね(銅)」は大阪より用意され、それは抜け荷買いの品と共に馬島、藍島あたりに囲い置くよう手筈が組まれた。
失敗すれば捨て置かれる。金右衛門は瀬戸際の中で仕組みを按じた。