2007年6月26日火曜日

本村




寒村であった門司において、地の人がかすかに住んでいた所が清滝とここ本村である。

ここには正連寺という名刹がある。天正年間明寂師開基によるこの名刹は日本最古の軍馬塚があることで名高い。そしてこの近くに明治から大正にかけて野村政一という人が住んでいた。中原中也の叔父に当たる人物である。中也は13歳の時ここ野村家へ父の名代として訪れている。
そしてこの時の模様を小説に著した。


「門司駅に着いたのは午後の五時頃だった。待合室のコンクリートの土間に、撒かれた水に夕陽がひかって、その汚い感じはまた門司全市の汚さの表徴ででもあるように家並を見渡した時思われた。」
いかにも青春の中也らしいひねくれた第一印象であるが、繁栄を謳歌する門司の雑踏が感じられる。
次に中也は門司駅から人力車に乗り本村の野村家へ向かう様子が描いている。
「柄の長い木の柄杓で、溝の水を汲み出して通りに撒いているのが方々で見られた。一度その重吹(しぶき)の一つが彼の耳朶に飛んで来てピシャッと着いた。手でそこの所を触ってみると泥も混じっていた。彼は世界中の者から馬鹿にされているように感じられた。」
親戚の家へ訪れたとすればこれは本川通りであろう。当時の本川通りは今のような暗渠ではなく、真ん中に川が流れていた。また門司の町にはあちこちに溝があり清流が流れていた。昔の子どもたちはこの水で遊び母親たちはこの水を打ち水にしていた。当時を知る古老の謂々と合致する。

いかにも気負った文章ではあるが、実は恋愛小説である。このあと中也らしい突っ張った文章が綴られている。
中也はこの時、野村政一の姪である上村某に初恋をしたらしい。訪問を終え山口に帰った中也はこの姪と文通を始めた。それを母に見つかり文通を止めさせられ、初恋は敢え無く終わる。
この小説が書かれたのは中也が18歳の時。前年同棲を始めた長谷川泰子とともに上京し、実世界の恋愛の中で書かれた淡い初恋の思い出でかもしれない。


門司に言及した小説がもう一編ある。
「(前略)『門司の旅館で船を待つ間、船の汽笛が鳴るたびに、火のつくように泣き出すのには閉口させられた。あの日はそれにまた、吹く降るの日で、――』とはまた母の話である。(中略)その後三十年、思へば『私の青春は嵐に過ぎなかった。時々其處此處に陽の光のちらついた』、詩さながらではなかったか。さても私の境涯の。その最初の門出は『門司の旅館で船を待つ間、船の汽笛が鳴るたびに、火のつくように泣き出』したのであり、『その日はそれに、吹く降るの日で』あったのである。」

彼の生涯の端緒は門司だったかもしれないが、たまたま門司であったに過ぎない。
しかし自分の人生を劇的に想像することは青春時代の誰しも経験があることではないだろうか。感受性の強い中也は激しくそれを感じたに違いない。詩のように流れる母の言葉とともに中也は門司の港の記憶を終生大切にしたと考えたい。



しののめの、
よるの海にて
汽笛鳴る――
心よ、起きよ
目を覚ませ。

しののめの、
夜の海にて
汽笛鳴る。

「『一つの境涯』――世の母びと達に捧ぐ――」

2007年6月25日月曜日

清滝・元清滝


料亭とは「料亭」と看板があれば即ち料亭である。店の主人が「料亭」と言ってしまえば、それがただの日本食レストランでも料亭である。是非も無い。

その昔、芸妓を置いている芸者屋、仕出し料理屋、待合の3つを三業と言った。その三業が軒を連ねる一郭が三業地である。これら三業は公安委員会(戦前は警察署)の許可の下、三業組合を組織し、芸妓の斡旋や料理屋の決済など事務処理をする見番を置いた。客が待合に入ると見番から芸者屋へ遣いが走り、料理屋からは料理が運ばれてくる。待合は客に部屋を貸すだけであり、そこで客は芸妓に酌をさせナニをするという寸法であった。
その中の料理屋と待合が一緒になったものを料亭といった。芸者屋と料亭で二業と言った。料亭という言葉は昭和になってボチボチ出てきた言葉なのである。

本来料亭とは役人と御用商人が結託する場所である。彼等御用商人は料亭で無理な遊びをした。彼らが思い切ってやっておくのは、必要なときに無理が通るように仕度しておくのと、策略が目立たぬように、平常自分の遊蕩を目慣れさせておくためである。故に料亭は路地を好む。暗がりを好む。東京神楽坂、赤坂の料亭然りである。
そこに料亭の味わいがある。そういう意味合いを込めれば清滝で迷子になっても時間の無駄ではない。


清滝通りは門司屈指の古道である門司往還の一部である。今でこそ車の離合できる通りではあるが、以前はこの道路いっぱいに民家が建ち並んでいた。戦災による延焼を防ぐ目的で民家が取り除かれたもので、今の三宜楼横の歩道が即ち本来の清滝通りである。馬車が一台やっと通れる広さであったことが瞭然とする。
そしてその山手に広がる元清滝には人一人が気持ちよく通れる路地が錯綜する。つまり二人では窮屈ということである。

門司の料亭文化は清滝に建てられた速門楼(そうもんろう)を嚆矢とする。以来この界隈には大正から昭和にかけて料亭が林立していた。今尚古びた料亭、置屋の跡がこの路地街には残っている。この狭い界隈には門司で最初にふぐ料理を始めたと言われている「文明」、高松宮殿下が定宿としていた「三笠」をはじめ、「春日」「音羽」「醍醐」など料亭の数は10を超えた。最盛期には芸伎衆が170~80人、置屋も20軒あったと言われていた。伊達を拵えた姐さんが七分を従え道を急ぐ。その頭の上から粋な三味の音が流れてくる。そんな風情が戦前にはあったのであろう。異名を「芸者横丁」と呼ばれる由縁である。


ちなみに「置屋」、「揚屋」は関西の謂々である。この言葉は元々遊郭から流れてきた言葉で、遊女の最上格太夫を置くから「置屋」であり、太夫を揚げるから「揚屋」であった。江戸に於いて太夫は寛延宝暦度には絶滅している。京大阪では明治度まで太夫がいたためこの言葉が残っていたらしい。門司にこの言葉が残っているのは関西文化圏である証しでもある。関東ではそれぞれ芸者屋、待合と呼んでいた。


元清滝の路地を上ると地の人は権現様と呼んでいる清年(きよとし)神社がある。鳥居の横には芸妓らが奉納した狛犬が鎮座する。この神社には今尚色街の艶がある。ここの名物威海衛から持ってきた日清戦争の戦利品を知る人は多いだろう。しかし最も尊いことはこの神社が今でも地域のコミュニティとなっていることである。神社の清掃、修理は地の人たちの手で行い暮には注連縄作りのために集まる。

静かな会話がここにある。

2007年6月24日日曜日

和布刈神社



レトロに騙されたと思った観光客もこの風景を眺めれば留意が下がる、元は取ったと思うことだろう。対岸の下関、仲を取り持つ猛々しい水の流れと喘ぎながら行き交う数多の船は絶景に相応しい。

和布刈神社で先ず誰もが知っていることと言えば和布刈神事であろう。福岡県無形民俗文化財に指定されている。が、これが曲者なのだ。国や地方自治体は宗教に拘わってはいけないことになっている。そこで和布刈神事は和布刈行事と名を改めさせられた。故に正式名称は「和布刈行事」と言う。こんな些細なことでも知っていれば自慢にはなる。

この神事はかつて秘事であった。
見ると眼が潰れると言われ付近の住民は正月になると中の明かりが漏れないように固く戸を閉ざし、秘事が終わるまでひっそりとしていたと言う。
いつの間にか観光名物になったが、今でも神事を見たことがない古老がいる。「見たことがない」と自らを卑下のではなく、「見たことがある」人に災難が降りかからないか按ずるのである。門司っ子を自負するなら「和布刈神事を見たことがない」ということが最大の自慢ではなかろうか。

そもそも秘事であったものを見て何の御利益があろう。物珍しさに人が集まるだけである。
ただ唯一和布刈神社に多大な御利益があることだけは間違いない。正月と旧正月の2度に亙って賽銭の雨が降る。

替わって甲宗八幡では出せば国宝物と言われる御神体がある。50年に1度の御開帳以外の公開はない。来年の4月には御開帳の由。
信仰に痩せ我慢は必要なのだ。