2007年12月2日日曜日

復興みなと祭り




海峡に緑のそよ風が吹く。
見にくいけど亀に乗っている浦島太郎は中野真吾市長
初夏の晴天のもと午前11時、満船飾旗を掲げた約30隻の在港船舶からいっせいに鳴り響く汽笛を合図に「復興みなと祭り」の祝賀式が華やかに開催された。満州事変のため自粛されていた「みなと祭り」の実に10年ぶりの復活であった。


戦争による門司市の罹災は甚大であった。港湾陸上施設の大半を焼失し、港内は無数の機雷によって封鎖され、全く使用不能の状態であった。
また、市街地は中心の商業地区を約20万坪にわたって焼失した。貿易を封じられ、市街地も復興しないありさまでは、門司市はほとんど都市機能を失ったといってよい。しかも全国的な物資の極度の不足は経済界の混乱とインフレの増高をきたしていた。戦災の復興は門司市再建のために最も緊急を要するものであったが、このような悪条件に再建を図らなければならないということは、門司市の商工業者の立ち上がりを一層困難なものにしていた。あたり一面焼け野原のまま時間だけが無常に流れていた。復興の槌音は遠くかすかに聞こえてくるにすぎなかったのである。


みなと祭り復活の音頭をとったのは当時門司市商工会議所会頭(後に門司市長)中野真吾氏である。
港は門司の面目であるのみならず、門司市民にとっての誇りである。港さえ昔に戻れば門司の復興は自然に促進される。しかし復興事業は自力でやらねばならない。彼は市民に娯楽を与えることによって復興に弾みをつけようとした。みなと祭りを復活させることにより、市民に活力を与え復興の心意気を全市にみなぎらせようと考えたのである。ただちに専門委員を選出し企画に取り掛かった。


「祭り」と名のつく以上権威が必要である。みなと祭りはその権威を和布刈神社から拝借した。
戦前は5月1日から3日までであった開催日を、5月13日から3日間、和布刈神社の祭礼にあわせた。
食料、日用品すらママならない時代、壮麗な山車、パレードは期待できない。またいかに壮麗であれ旧態然とした観景であるかぎり、心目を爽快にすることはできない。
花火大会、門司音頭、舞踏、相撲、野球、商店訪問マラソン、船員慰問休憩所などさまざまな企画が立案された。また天の岩戸以来、神も仏も女性の力を俟ってはじめて栄える。専門委員会は新しく「『ミス門司』の選出」という企画を打ち出した。当時粋人として知られていた中野氏ならではの発案というべきか。


みなと祭りの再開が発表されると復興の気勢は揚がった。戦災で焼失したままであった旧堀川以西のかつての繁華街は、内本町で食堂「幸亭」を経営していた早川輝一氏らが発起人となり、一帯の商店街の再建に取り掛かった。

「門司銀座街」と銘打ち、みなと祭りに華々しくデビューするたの建設工事は急ピッチで進められる。飲食、物販のみならず一角には銀座映画劇場が建設された。のちの「銀映」である。付近の商店街も建築に取り掛かり始め、復興の槌音はようやく足並みが揃いはじめた。


昭和22年5月13日午前8時、「復興みなと祭り」は商店訪問マラソンより始まった。
市役所集会場で行われた祝賀式は、駐留米軍門司港司令官も来賓として出席、ミス門司に選ばれた山田富美子、織畠京子、庄野ます子、都留和子4嬢の紹介、色街の姐さんたちによる余興があり、なごやかで華やいだ雰囲気につつまれた。


焼け落ちた門司商工会議所
すでに栄町を含む一帯の商店街は、みなと祭りが始まる数日前から福引つき大売出しを行い前景気を添えている。美しいアーチで彩られた老松公園では昼間から花火が上がり続け、演芸会が挙行され、出店は賑わいを見せていた。


仮設ではあるが船員慰問休憩所も設置された。午後には山車や仮装行列が続々と繰り出し、花電車、花自動車が走り、旧制中学、社会人野球、テニス、バレーボールなどスポーツ行事とともに、駐留米軍軍楽隊もお祭り気分をいっそう賑やかにした。第24師団軍楽隊は日本占領軍屈指の軍楽隊として知られていた。
当時の時代背景を考えると、決して豪華で派手なお祭りはできなかったはずである。しかし門司っ子は気負いを貴ぶ。モノはなくても見栄を張りたい。山車に付随する者は身の回りのあらん限りのものを掻き集め、華美を競い意匠を争った。そうは言っても山車やパレードのほとんどは市役所主導で行われた。祝儀が1000円出たというから、ほぼ強制参加に近い。もしくはヤラセである。復興気分を盛り上げるためには、なり振りをかまってはいられなかったのだ。


最終日には市役所、市内各会社、銀行は休業した。午後からは中野市長の浦島太郎をはじめ、市内各職場の仮装行列が繰り出した。お祭り気分は最高潮に達し、市内はごった返した。
遠目から傍観する者は誰一人いない。市民は復興を待ち望んでいた。みなと祭りに明るい未来を信じることができたのである。


みなと祭りが終わると梅雨が来る。祭りの名残と愛惜を洗い流すかのように雨は降り始めた。

2007年11月28日水曜日

英国領事館誘致一件 その3

昭和27年4月25日、福岡県は英国大使館誘致陳情書を外務省からロンドン在外事務所を通じ直接英国外務省へ提出した。当時福岡県知事は杉本勝次氏、ロンドン在外事務所長は浅海浩一郎氏である。占領下の日本にあって在外事務所長は実質特命全権公使であった。
陳情の場合、同じ陳情書を同じ場所に何度も送ることはない。手を変え品を変え陳情を繰り返す。門司市単独では既に提出してある。今度は福岡県が出張る番ということになる。

添付書類は次のような内容である。

陳情書(市長、議長、会頭連名)
添付資料1.戦前の状況、2.領事館門司市の設置の理由、3.領事館敷地建物の提供、4.陳情経過の概要
福岡県知事陳情書
北九州4市連名陳情書
県下並びに関係商工会議所重要貿易商社陳情書並びにサイン
領事館建物敷地の図面並びに敷地写真
現存下関領事館写真
英文資料
大使館との往復文書写真

まず.「陳情経過の概要」を見ると、これまでの陳情経過が分かる。
1月18日、市長自ら上京し英国大使館総領事オドワイヤー卿に陳情書を直接提出。
2月28日、英国大使エズラーデニング卿九州公式訪問。
2月4日、総領事オドワイヤー卿より陳情書の返信。
3月22日、再びデニング大使へ書簡送付。(これには門司財界人の署名捺印が添付されていたようである)
3月30日、デニング卿より返信。
4月9日、領事館敷地建物の図面を福岡県知事の陳情書に添付し外務省から英国大使館に正式に申達。
4月10日、福岡県土屋副知事、中野門司市長、木村商工会議所会頭は同書簡の写しを携行し英国大使館へ直接訪れ、オドワイヤー総領事に敷地建物についての詳細な説明を行う。


門司市が説明している「戦前の状況」では、在下関英国領事は領事代行(TRADE CONSUL)であり、ホームリンガー商会の支配人が兼務していたこと、ホームリンガー商会は現在門司にて活発に業務をおこなっていることが書かれてある。ホームリンガー商会支配人を門司に呼び寄せることが誘致を優位に進める上で欠かせないものであったと想像される。

「領事館門司市の設置の理由」には北九州工業地帯の復興、門司港の地理的優位性と同時に税関、海上保安部など国の出先機関の多くが進出していることが挙げられているが、この時期海上保安部、商品取引所、関門港務局、関門港内無線局などは下関と熾烈な争奪戦を繰り広げている最中であった。
「海運業のほとんどは下関ではなく門司にあり、門司に東京大手商社、外国貿易会社の支店が進出していること」は(結果的に門司の衰退を招くことになるが)、地方都市にとってブランドであることは今も昔も変わらない。門司の優位性を示す絶好の材料である。
また予想される領事はFUL CONSULではなく、TRADE CONSULであり、門司に領事館を設置することは海運業と領事の兼務が円滑に運営出来る旨記されている。当時下関港は水産基地という役割が強かった。もし下関側に領事館が置かれたならば「多大の時間的経済的不便を蒙り引いては海運貿易の発展に重大な支障を来す恐れが多分にある」など、下関市との差別化が記されてある。この文章には戦前の門司市に英国領事館が設置されていた旨は記されていない。ここで少し気になるのは大正度の門司市街図の市役所近くに「英国領事館」と表記してある点である。もし戦前の門司市に英国領事館が存在していたのであればこの添付書類にはその存在を明記しているはずである。また「新九州新聞社編集『関門北九州 官公・会社・紳士録』新九州新聞社 1953」によると、前出したホーレスナター氏が戦前の英国領事館誘致に拘っていたことが書かれてあるが、成功したとは書かれていない。大正度に表記されている英国領事館は大正のこの時期に誘致活動を展開し、予定地として表記されてあっただけで、誘致には失敗したということであろう。地図の表記だけで、ここに英国領事館が存在したと信じている人がいることは遺憾である。また現在同様この時代には毎年地図が発行されていたらしい。詳細に当たればいつからいつまで誘致活動が行われていたかも明らかになるかもしれない。

さらに「県下並びに関係商工会議所重要貿易商社陳情書」(表記は『要望書』、福岡県北部市町商工会議所会頭の署名会頭印あり)には「戦前下関市に英国領事館があったことは門司市が未だ発展をしていない経済事情に依って決定されたものと」信ずるものであり「過去の歴史に捕らわれることなく現実の経済情勢を」考えて欲しいと結ばれている。

「領事館敷地建物の提供」には門司市は既に領事館用の敷地を準備、建物の図面の存在を明らかにしている。敷地は36坪、鉄筋コンクリート2階建、建坪60坪であり、領事館業務が門司市に存続する限り無償で提供する旨記されている。領事に任命されればその任にある限りこの建物で家賃無料にて営業することができるということである。また直ちに領事館が開かれた場合は門司商工会議所会頭室及びその付属部屋を提供すると申し入れまでしている。陳情書に添付された敷地写真と建物の図面は在日英国大使館及び英国外務省に提出されていたはずであるが、その資料の存在は確認されていない。現存する下関領事館の写真を添付していることから、新たに建てられる領事館建物は下関領事館に匹敵する意匠でデザインされていたことが想像される。

英国下関領事館について少し記す。
建物のことは割愛する。
明治中期から昭和初期にかけて、下関にはイギリス、オーストリア・ハンガリー、ノルウェー、ドイツ、アメリカ、スウェーデン、ポルトガル、オランダ各国の領事館が存在していた。
下関に初めて英国領事館が設置されたのは1901年(明治34年)のことである。初代領事はフランク・W・プレイフェア、事務官はアングス・マクドナルドであった。初めは赤間町26番地(当時)、後に西南部町(当時)にあった瓜生商会に移転した。瓜生商会は明治22年、瓜生寅(はじめ)により設立された。石炭貿易とホームリンガー商会の保険代理業をおもな生業とし、総支配人はホームリンガー商会の支配人であることから、ホームリンガー商会の実質的な支店であった。
1906年、下関市より英国へ敷地が提供され、その敷地内に同国領事館が建築された。現存の領事館である。
大正3年、それまでのFUL CONSULからTRADE CONSULに替り、以来領事はTRADE CONSULが事務を執った。このTRADE CONSULにホームリンガー商会支配人が任命されていたようである。紅葉館はホームリンガー支配人リンガー氏がふたりの息子のために建てた建物であった。当時は木造洋館であり、「臨峡館」と呼ばれていた。そして紅葉館はいつの頃からか代行領事の公邸として使われるようになり、太平洋戦争で日本による領事館閉鎖まで続いた。戦前最後の領事はW・H・セイントである。藤原義江が知る紅葉館はこの木造建築のものであり(現存の建物は昭和11年竣工)、この建物は昭和40年代まで存在していた。
以上はホームリンガー商会トーマス・マルコム氏の手紙(宛先不明)から少し借用した。この手紙の日付は昭和27年2月とあるが、この時期、門司と下関とで領事館争奪戦が行われていたのは前出の通りである。
下関市は戦前の実績、領事館、付随する家具、調度品、領事公邸が現存することを主な武器として誘致活動を行ったであろうと想像される。


この「陳情書」は「秘」と記されていること、この件での新聞記事の初見は8月であったことから、ロンドンへの陳情は秘密裏に行われたと思われる。
外務省ではこのような競合が行われた場合、平等に取り扱うということであった。下関も同じような陳情を行っていた可能性があるがその確証は得られていない。
昭和27年4月28日にはサンフランシスコ講和条約が発効する。日本は外国との国交再開のため大使の交換が慌しく行われた時期であった。


(あと一回くらいはなんとかなるかも)

2007年11月27日火曜日

英国領事館誘致一件 その2

英国大使エズラー・デニング卿は、2月23日福岡にて講演、その後長崎大分を経て同月28日朝、門司へ到着した。

英国大使の門司での日程は次の通りである。(以下資料のママ)

2月28日
午前8時04分 門司駅着 直ちに市長乗用車にて折尾炭鉱へご案内
午後3時30分 炭鉱より門司帰還
市役所市長室にて小憩の後市長、市議会議長、商工会議所会頭より市政概況説明及び英国船会社代表と懇談
午後5時00分 門司市清滝町ユナイテッドシーメンズサービスへご案内、視察同所にて休憩
午後6時00分 門司市広石町山水園にて歓迎晩餐会
午後9時30分 山水園出発門司駅へ
午後9時52分 門司発下関へ

沿道での歓迎は大変なものであったらしい。日英両国の旗を振る小学生の前を英国大使はニッコリと会釈し、錦町小学校の生徒から花束を手渡されている。故ジョージ6世の喪服中ということもあって、白ずくめの花束という気の遣いようだったと当時の新聞には書かれている。(「新九州」昭和27年2月29日)

折尾炭鉱とは日炭高松炭鉱(当時)のことである。高松炭鉱は昭和26年、大規模な機械化合理化をしていることから、当時最新式の設備を導入していたと思われる。

英国船会社代表と懇談とあるのは、たぶんホームリンガー商会支配人トーマス・マルコム氏、ホンコンイースタン商会支配人マッケンジー氏、ドットウェル商会支配人(名前不明)と思われる。マルコム氏は、戦前下関において英国名誉領事を任命されていた。また当時マルコム氏の自宅は下関に在った。今の紅葉館がそれである。ホームリンガー商会については後述。

ユナイテッドシーメンズサービス(U.S.S)は当時「国連会員クラブ」と呼ばれていた。1942年、ニューヨークに設立、米国の友好国及びその他商船船員と船員の家族に娯楽、医療、教育等のサービス、救助と援助を提供する社団法人である。当時日本には横浜、神戸、門司の3ヶ所しかなかったことから、門司港の重要性はアメリカも十分認識していたことが窺える。中野門司市長は同年1月、日本人、アメリカ人各8名からなる「U.S.S港務委員会」委員に委嘱されている。「U.S.S港務委員会」とはクラブが民主的に運営されるように、毎月1回例会を開き、忠告などをおこなう組織であり、門司に最初に誕生した。
ここは九州訪問中の英国大使にとって母国語が話せる数少ない場所のひとつであったであろう。外国で暮らしている人間にとって母国語に接する機会ほど心が休まることはない。くつろいでいる大使に、門司市はここでもアメリカを使って陳情を繰り返していたことが想像される。


晩餐会出席者は以下の通りである。(資料のママ)

主賓
エズラー・デニング卿

陪席者
第一物産株式会社門司支店長 安部隆任
九州海運局長        荒船精一
門司港司令部司令官     ブローニン大佐
毎日新聞西部本社代表    藤原勘治
澁澤倉庫株式会社門司支店長 畑薫
前タイ国名誉領事      久野勘介
門司鉄道管理局長      石井英一
門司駐在運輸支配人     井沢克己
大阪商船株式会社門司支店長 茅田恭兄
日東貿易株式会社社長    木村民蔵
門司港司令部副司令官    ランバート中佐
ホンコンイースタン商会   マッケンジー
ホームリンガー商会     マルコム
第七管区海上保安本部    間庭健爾
日本製粉株式会社門司工場長 中川正夫
日本郵船株式会社門司支店長 中村徳三郎
ホームリンガー商会     岡村廣造
日本銀行門司事務所長    大塚秀治郎
内外通商株式会社門司出張所 関口禮彦
新九州新聞社代表      大野静馬
株式会社東京銀行門司支店長 正田栄三郎
門司税関長         吉田清
U.S.S.門司港支配人     M.B.ウインター

主催者
門司市長          中野真吾
門司市助役         柳田桃太郎
門司市議会議長       末松喜一
同副議長          野畑彦蔵
門司商工会議所会頭     木村悌蔵


分かる範囲で陪席者を述べる。
前タイ国名誉領事 久野勘介は当時久野商会主人である。久野商会は米穀商から発展した会社である。戦前から戦後の食糧難の時代まで、日本は外米を輸入していた。その関係でタイ国名誉領事を任命されていたのではないか。

ちなみに名誉領事と言うのは領事を民間に委託した場合の尊称である。英語ではTRADE CONSUL、外交官による領事をFUL CONSULという。
戦前の門司ではナター商会支配人、ホーレス・ナターがポルトガル名誉領事をしていたことがあった。自宅は門司市大里二十町。柳の御所には彼の名前の刻まれた玉垣がある。彼もまたホームリンガー商会の関係者であった。彼の家には一時藤原義江が暮らしていたと言われているが、それは藤原義江の戸籍上の父親ネール・ブロディ・リードがホームリンガー商会の支配人をしていた関係からと思われる。

日東貿易株式会社社長 木村民蔵は後に横浜の英国系貿易会社を通しての陳情をおこなっている。

ホンコンイースタン商会はホームリンガー商会が昭和27年、門司で営業を再開する際に多大な尽力をしている。

ホームリンガー商会について少し記す。
「会社の沿革」によるとホームリンガー商会は長崎の政商グラバーの後を引き継ぐ形で、グラバーの片腕だったフレデリック・リンガーとライル・ホームによって明治元年、長崎で設立された。
旧リンガー邸は重要文化財として長崎に現存していることから、当時の隆盛が窺える。
明治17年、ロイズ保険代理店の任命を受ける。ロイズの名前は有名であるが、現在日本での代理店はホームリンガー商会の他に1社あるのみである。
明治22年、下関に瓜生商会設立。支配人は瓜生寅(はじめ)。ここを支店として下関での活動を始める。
明治34年9月、下関に英国領事館が開設。当時はFUL CONSULであったが、大正3年よりTRADE CONSULに替る。
以来下関英国名誉領事はホームリンガー商会の支配人が勤めていたようである。
昭和15年、日本政府の令により会社は閉鎖。財産は没収され、当時支配人であったトーマス・マルコム氏はホンコンに逃れた。この時瓜生商会は旧来通り下関で営業をしていたらしいが活発な活動はしていなかった模様である。詳細は不明。
昭和26年、ホンコンイースタン商会及びドットウェル商会の援助によりホームリンガー商会が香港にて設立。瓜生商会は支店のままであるが、トーマス・マルコム氏は財産を戻され紅葉館に住居を始めている。
昭和27年、ホンコンイースタン商会及びドットウェル商会の援助により門司に日本本店を開設。場所は港町1丁目(当時)にあったホンコンイースタン商会の社内である。ドットウェル商会は門司市西海岸通り。
このホームリンガー商会の香港本社開設、門司日本本店開設に大きな貢献をした人物が番頭岡村廣造(ひろぞう)氏である。この晩餐会に陪席しているのはそういう関係ではなかったかと思われる。

ホームリンガー商会が門司に本店を開設したのは昭和27年2月である。このギリギリの時期ということが少し気になる。英国が以前のようにTRADE CONSULを任命するということが予想されていたならば、門司市と下関市との間でトーマス・マルコム氏の奪い合いが行われていたことは十分考えられる。門司市は大事なコマを手に入れたことになる。

門司商工会議所会頭 木村悌蔵は、山口高商(現山口大学経済学部)卒、平野屋を買収し「山城屋」の基礎を築いた。当時門司市における保守派の巨魁である。後に北九州商工会議所の初代会頭を務めている。

晩餐会の詳細は伝わっていないが、以上を見てみると北九州5市と門司の財界人、行政総力を挙げての歓待だったことは想像に難くない。


下関は英国領事館誘致の第一歩は門司に遅れを取った。しかし戦前の領事館がそのまま残っていること、戦前の英国名誉領事トーマス・マルコム氏が下関在住であることを武器に誘致運動を繰り広げていたと思われる。英国大使は28日夜には下関に向かう。29日には川棚で記者会見を予定している。新聞によると下関には何か「秘策」があったらしいが、詳細は伝わっていない。(下関市側の資料を読んでいないからである)



門司市の陳情はさらに続く。

2007年11月25日日曜日

英国領事館誘致一件 その1

「昭和27年1月5日の『西日本新聞』」より、
「英政府は3日、対日平和条約批准書を米国務省に寄託したが、英外務省は5日批准完了を正式に発表するとともに、次ぎのように語った。
(中略)対日平和条約はなお米国および特定調印国の過半数の批准が完了しなければ発効しないが、大使の交換と外交の再開はそれ以前でも可能である。(中略)
英国政府はすでに外務省極東部長サー・エスラー・デニング卿を戦後最初の駐日大使に任命していた。(後略)」

門司市の動きは早かった。同日(1月5日)起案(決裁日不明)の門司市の内部決裁文書がある。
「主要外国領事館門司市誘致陳情書、伺主要外国領事館を門司市に誘致するための陳情書別紙の通り市長、議長、(門司市商工会議所)会頭名にて作成陳情してよろしいかお伺い致します」

余談ではあるが、内部決裁文書の中に薄っすら「斉藤」という印が見える。彼は門司市職員の傍らYMCAの牧師をされていて英語に堪能であったため、在門司米軍との周旋窓口に当たっていたらしい。詳細は不明。また「宮本」という印も見えるが、彼は昭和21年門司市役所に入庁。斉藤氏と同じく英語が堪能であったようである。彼は後に経済企画局長を歴任されていたらしいがこちらも詳細は不明。この一件における英国外務省、大使館と交わした文章、手紙の翻訳はこの両名によるものと思われる。

閑話休題

直ちに陳述書を作成(昭和27年1月18日付)。中野真吾門司市長(当時)は吉田清門司税関長(当時)を同行し、自ら東京半蔵門の英国大使館に持参する。

当時の門司の状況を振り返ってみる。
門司港は戦争による港湾施設の破壊と機雷による海峡封鎖の結果、その機能を喪失し、22年まで外国貿易は途絶状態にあった。掃海作業と運輸省による港湾施設復旧工事がすすむにつれて港湾機能尾徐々に回復し、24年1月に関門港安全宣言、同年10月に掃海完了に伴う開港宣言がなされるに至ったが、外国貿易船の(昭和)23年中の入港はわずか70隻に過ぎなかった。朝鮮戦争を経た27年に至っても戦前(昭和10年)の10分の1程度の水準でしかなかったのである(「北九州市史編纂委員会『北九州市史』産業経済Ⅰ 北九州市 平成3」)。
安全宣言がなされたとは言え、まだまだ危険な海だったことは想像に難くない。港湾関連産業が基幹産業として自負していた門司にとって、港湾設備の早期回復と港のイメージアップ、外国船の入港及びそれに伴う産業発展は最重要課題であった。門司市はどうしても起死回生の一手が欲しかったことは十分に理解できる。

また陳情書の中に注目すべき一文がある。
「(前略)北九州五市は日本四大工業地帯の一として北九州工業地帯を構成し活発な経済活動を続けております。(中略)昨年(昭和26年)十二月八日八幡市で開催された北九州五市市長、市議会議長、商工会議所会頭よりなる会議におきまして『北九州五市には是非関係諸外国領事館を誘致せねばならないので最も適当と思われる門司市に誘致するよう運動する』との決議を致しましたがこれは北九州五市には貴国の領事館が是非必要であり設置に際しては門司市が他の四市に比して最も適当な場所であることを示す明瞭な証左であると信じます。(後略)」

既にこの当時から各五市の特長を活かした緊密な連携、協力体制が敷かれていたようであるが、当時の五市合併運動はどのように進められていたのか。

以下は「徳本雅彦『北九州市成立過程の研究』九州大学出版会 1991」の助けを借りる。
実はこの1年前に合併運動は頓挫している。理由は門司市の離反であった。
関門(下関を含めた)、洞海地域各都市の合併論争は明治20年頃から様々な形で行われてきたが、この戦後初の合併運動は「5市」という枠組での合併運動としては「第3次合併運動」と呼ばれている。
第1回北九州五市合併研究委員会が開催されたのは昭和23年1月14日。昭和25年6月9日には福岡県主催による「北九州合併協議会」が開催、同年7月1日には「北九州五市合併調査促進委員会事務局」が開庁し様々な調査報告を行っている。

(マスコミの動向を書く予定)

門司市はこの合併論には当初から反対の立場であった。北九州五市合併研究委員会には欠席。合併調査促進委員会においては合併促進への反対をはっきりと声明している。また県が作成したリーフレットを握りつぶし、門司市主催による合併反対の理由を説明する懇談会を各小学校で開くと、合併反対の「上からの世論づくり」を公然と行っていった。表向きは「公聴会」と称されていたが、事実上合併賛成派の議論抹殺であった。
今流行のサクラまで使い、あわや乱闘寸前という公聴会まであったという。

門司の場合には港湾都市としての発展以外には門司の発展は考えられないという観点があり、そのためには関門港の発展を進める方向で将来計画を追求していかなければならないという考え方が根強かった。そのためには5市ではなく6市、もしくは関門2市の合併を優先したいという思惑が多くの市民にあったことは想像に難くない。

また当時の門司市政の構造は次のような特徴をもっていた。すなわち門司市では伝統的に保守勢力が強く、市政の実権は旧政友会系の中野真吾市長を中心に過半数を占める民主党の手に握られていた。それに協調関係をとっていた「革新クラブ」は自由党の流れを汲んでおり、2派の議席数を合わせれば市議会議員の80%に及んだ。また経済界では木村悌蔵門司商工会議所会頭を中心とした保守系の商工関係者がバックアップしていた。
対する合併賛成派は市議派と県議派とに内部分裂し、門司市の動向は中野市長の手中にあったといっても過言ではない状況であった。
5市のうち戦争で最も壊滅的な被害を受けたのは門司市であり、復興にはまだまだ人材、時間、資金を必要としていた。港は未だ不完全な状態であるのに、五市合併により中心は小倉に移り、門司は場末の船着場への転落するのではないかという不安は常に住民の意識の中にあったのも頷ける。
市長、市議会議員は民選である。世論を無視できない状況にあったことは十分理解できるが、あまりにも強引のような気がする。

昭和26年2月3日、中野門司市長、杉本福岡県知事会談。
同月27日、両氏の二次会談は決裂し交渉は打ち切りとなった。
その後昭和34年まで合併運動には目立った動きがない。しかしこの陳情書を見れば5市は既にひとつの都市として存在し、政治的に頓挫したとは言え、行政面では着々と連携を強めて行っていたことが窺える。また、「北九州五市合併調査促進委員会」は細々ではあるが活動を続けていた。合併はこの5市以外にありえないということでは県を含めた行政も住民も大筋では認めていたのである。あとは住民への啓蒙と時期を窺っての議論再開への準備、結果論を加えるならば都市生活の変容が必要であった。

この時期の「五市合併運動」の頓挫は門司市の離反が原因ではあったが、5市の発展には港湾都市門司港の発展が不可欠であり、門司港の発展には英国領事館誘致が不可欠であり、英国領事館誘致には5市の連携が不可欠であるという相関関係が存在することを5市の行政サイドでは認識していたことがこの陳情書から見て取れるのである。

英国領事館の誘致には強力なライバルがいた。言わずと知れた下関市がそれである。下関市との対立はこれだけではなかった。門司海上保安部の下関移転、関門港務局設置、関門商品取引所の誘致など海峡を挟んで凄まじい火花を散らしていた。もし門司が関門合併を本気で模索していたならば、たかが領事館ごとき下関市にあっても何の不都合もないはずである。また門司市は北九州他の4市とも対立があった。5市協力による水道事業ではこの当時門司市は参加しない立場を取っている。
穿った見方をすれば、関門合併の主導権を握りたいという思惑でもあったのか、それとも港湾機能の回復を手土産に、五市合併に参画しようとでも思ったのか。領事館誘致に関して他の4市に協力を仰ぐところに門司市のワガママが見えなくもない。

中野門司市長が英国大使館へ陳情書を提出した節、どうやら英国政府が西日本に領事館を設置する用意があること、そのために英国大使を九州に公式訪問させるという情報を口頭で受けていたらしい。

門司市は戦後初となる「英国大使九州公式訪問歓迎晩餐会」に向けて準備を始めた。


(つづくと思う)

2007年10月18日木曜日

門司往還


まだ往時の姿で古道が残っている。
手向山トンネルを小倉方面へ越え少し行くと線路側に細い道がある。二人並んで歩けないこの細い道が江戸時代、門司往還と言われた当時の幹道の跡である。司馬江漢、太田南畝、吉田松蔭が歩いた道の跡なのである。

旧電車通りから門司側へ、道はY字に延びている。往時、手向山は海峡へ突き出で、線路側には松並木が続きその先は波打ち際であった。
この街道を塞げば小倉への道は遮断される。豊長戦争で最大の激戦地であったことも頷ける。

西鉄の前身九州電気軌道の開通は明治44年である。明治30年代の地図を見ると、門司往還は依然門司小倉間唯一の幹道であった。

道を歩くとポツポツ民家が立ち並んでいる。が、殆んどは空き家で、アスファルトの隙間からは草が伸び放題である。今では通る人も稀なのであろう。
先へ進むとクリーニング工場がある。人気のあるのはこの一角だけ。既に忘れられて随分と月日が流れているようだ。その先は舗装はされているがもう森の様相である。鎌か鉈でもないと入って行くのには勇気がいる。そこから無理矢理に20mも行くと道は行き止まり、線路によって分断されている。
前記の地図に由ると、この辺りで線路と交差している。明治度には踏み切りがあったのであろうか。

今は旧電車通りの山側の谷に地蔵が並んでいるのが見える。水かけ地蔵という。往時はこの行き止まったところに並んでいたらしい。地蔵の台座だけは残っていると古老の話しであったが、鬱蒼とした森の中では確認の仕様がない。この水かけ地蔵が昔の門司と小倉の境界だったと言われている。

門司往還はこれより大里宿を経て遥か甲宗八幡、旧門司へと続く。ここは古代からの船着き場があったところである。

長崎街道は脇街道にも関わらず幕府の直轄であった。江戸時代唯一の貿易港であった長崎に通じていたからである。
大里宿を長崎街道の起点とする説がある。理由として考えられるのは下関へ渡る際、小倉より大里から渡る人の方が多かったこと。相応の人馬が調えられ、幕府の定めた賃金で使役されていたことなどが挙げられている。これは脇街道並の処遇であった。実質的な長崎街道の起点だったことは間違いないであろう。
また中津街道の起点とも言われている。中津街道の一里塚や道標が大里のお茶屋(本陣)が起点であったこと、豊前豊後の大名の参勤交代や宇佐神宮への勅使は、小倉城下を経由せず、手向山の東側から鳥越を抜け、黒原で小倉城下の中津口から来た街道と合流する道を歩いていたということである。

しかし小倉藩の文書のなかでそれが明記されていない以上、大里宿がこれら脇街道の正式な起点であったと考えるのには憚りがある。
オランダのアムステルダムやボリビアのラパスは首都機能が殆んどはないにも関わらずそこが首都であるのは、憲法にその旨が明記されているに他ならない。大里宿が長崎街道、中津街道の起点であるならば、その旨が明記された小倉藩の公文書の発見が必要なのではないだろうか。

2007年7月3日火曜日

本町


古い城下町ならまずある町。どこにでもありそうでなぜか小倉にはない。そしてなぜか門司には多い。 本町である。 本町、西本町、東本町、上本町とここぞとばかりある。大里を含めればさらに増える。 まさに本町の大盤振る舞いである。 要である本町は鎮西橋から桟橋通りまでを謂い、御多聞に漏れず中心街をなす。 門司最初の西洋建築安川松本合資会社、2番目の日本銀行門司支店、3番目の明治屋門司支店は皆本町に建てられた。 日銀をはじめとする金融の中心地であり当世の耳目を惹く一流会社が軒を連ねていたのである。 当時の門司の賑わいはどのようなものであったのであろうか。 明治度から大正度の始めまで、九州の田舎はまだ江戸を引きずっていた。 金を儲けることは賎しいもの、商人は悲しい身分とのみ思っていた。 貿易は投機考えられ、イカサマやゴマカシを手柄に、ただ買わせさえすればよいという心持ちがあった。 それ故か大賈豪商は貿易に手を出さなかった。ただ金になりさえすれば、という手合だけが、そこへ駆け付けたのである。そうした連中のすることである。想像に難くない。 この繁栄と活気の裏に垣間見える泥臭い人間の欲望を、少年中原中也は的確に表現している。 「門司駅に着いたのは午後の五時頃だった。待合室のコンクリートの土間に、撒かれた水に夕陽がひかって、その汚い感じはまた門司全市の汚さの表徴ででもあるように家並を見渡した時思われた。」

2007年6月26日火曜日

本村




寒村であった門司において、地の人がかすかに住んでいた所が清滝とここ本村である。

ここには正連寺という名刹がある。天正年間明寂師開基によるこの名刹は日本最古の軍馬塚があることで名高い。そしてこの近くに明治から大正にかけて野村政一という人が住んでいた。中原中也の叔父に当たる人物である。中也は13歳の時ここ野村家へ父の名代として訪れている。
そしてこの時の模様を小説に著した。


「門司駅に着いたのは午後の五時頃だった。待合室のコンクリートの土間に、撒かれた水に夕陽がひかって、その汚い感じはまた門司全市の汚さの表徴ででもあるように家並を見渡した時思われた。」
いかにも青春の中也らしいひねくれた第一印象であるが、繁栄を謳歌する門司の雑踏が感じられる。
次に中也は門司駅から人力車に乗り本村の野村家へ向かう様子が描いている。
「柄の長い木の柄杓で、溝の水を汲み出して通りに撒いているのが方々で見られた。一度その重吹(しぶき)の一つが彼の耳朶に飛んで来てピシャッと着いた。手でそこの所を触ってみると泥も混じっていた。彼は世界中の者から馬鹿にされているように感じられた。」
親戚の家へ訪れたとすればこれは本川通りであろう。当時の本川通りは今のような暗渠ではなく、真ん中に川が流れていた。また門司の町にはあちこちに溝があり清流が流れていた。昔の子どもたちはこの水で遊び母親たちはこの水を打ち水にしていた。当時を知る古老の謂々と合致する。

いかにも気負った文章ではあるが、実は恋愛小説である。このあと中也らしい突っ張った文章が綴られている。
中也はこの時、野村政一の姪である上村某に初恋をしたらしい。訪問を終え山口に帰った中也はこの姪と文通を始めた。それを母に見つかり文通を止めさせられ、初恋は敢え無く終わる。
この小説が書かれたのは中也が18歳の時。前年同棲を始めた長谷川泰子とともに上京し、実世界の恋愛の中で書かれた淡い初恋の思い出でかもしれない。


門司に言及した小説がもう一編ある。
「(前略)『門司の旅館で船を待つ間、船の汽笛が鳴るたびに、火のつくように泣き出すのには閉口させられた。あの日はそれにまた、吹く降るの日で、――』とはまた母の話である。(中略)その後三十年、思へば『私の青春は嵐に過ぎなかった。時々其處此處に陽の光のちらついた』、詩さながらではなかったか。さても私の境涯の。その最初の門出は『門司の旅館で船を待つ間、船の汽笛が鳴るたびに、火のつくように泣き出』したのであり、『その日はそれに、吹く降るの日で』あったのである。」

彼の生涯の端緒は門司だったかもしれないが、たまたま門司であったに過ぎない。
しかし自分の人生を劇的に想像することは青春時代の誰しも経験があることではないだろうか。感受性の強い中也は激しくそれを感じたに違いない。詩のように流れる母の言葉とともに中也は門司の港の記憶を終生大切にしたと考えたい。



しののめの、
よるの海にて
汽笛鳴る――
心よ、起きよ
目を覚ませ。

しののめの、
夜の海にて
汽笛鳴る。

「『一つの境涯』――世の母びと達に捧ぐ――」

2007年6月25日月曜日

清滝・元清滝


料亭とは「料亭」と看板があれば即ち料亭である。店の主人が「料亭」と言ってしまえば、それがただの日本食レストランでも料亭である。是非も無い。

その昔、芸妓を置いている芸者屋、仕出し料理屋、待合の3つを三業と言った。その三業が軒を連ねる一郭が三業地である。これら三業は公安委員会(戦前は警察署)の許可の下、三業組合を組織し、芸妓の斡旋や料理屋の決済など事務処理をする見番を置いた。客が待合に入ると見番から芸者屋へ遣いが走り、料理屋からは料理が運ばれてくる。待合は客に部屋を貸すだけであり、そこで客は芸妓に酌をさせナニをするという寸法であった。
その中の料理屋と待合が一緒になったものを料亭といった。芸者屋と料亭で二業と言った。料亭という言葉は昭和になってボチボチ出てきた言葉なのである。

本来料亭とは役人と御用商人が結託する場所である。彼等御用商人は料亭で無理な遊びをした。彼らが思い切ってやっておくのは、必要なときに無理が通るように仕度しておくのと、策略が目立たぬように、平常自分の遊蕩を目慣れさせておくためである。故に料亭は路地を好む。暗がりを好む。東京神楽坂、赤坂の料亭然りである。
そこに料亭の味わいがある。そういう意味合いを込めれば清滝で迷子になっても時間の無駄ではない。


清滝通りは門司屈指の古道である門司往還の一部である。今でこそ車の離合できる通りではあるが、以前はこの道路いっぱいに民家が建ち並んでいた。戦災による延焼を防ぐ目的で民家が取り除かれたもので、今の三宜楼横の歩道が即ち本来の清滝通りである。馬車が一台やっと通れる広さであったことが瞭然とする。
そしてその山手に広がる元清滝には人一人が気持ちよく通れる路地が錯綜する。つまり二人では窮屈ということである。

門司の料亭文化は清滝に建てられた速門楼(そうもんろう)を嚆矢とする。以来この界隈には大正から昭和にかけて料亭が林立していた。今尚古びた料亭、置屋の跡がこの路地街には残っている。この狭い界隈には門司で最初にふぐ料理を始めたと言われている「文明」、高松宮殿下が定宿としていた「三笠」をはじめ、「春日」「音羽」「醍醐」など料亭の数は10を超えた。最盛期には芸伎衆が170~80人、置屋も20軒あったと言われていた。伊達を拵えた姐さんが七分を従え道を急ぐ。その頭の上から粋な三味の音が流れてくる。そんな風情が戦前にはあったのであろう。異名を「芸者横丁」と呼ばれる由縁である。


ちなみに「置屋」、「揚屋」は関西の謂々である。この言葉は元々遊郭から流れてきた言葉で、遊女の最上格太夫を置くから「置屋」であり、太夫を揚げるから「揚屋」であった。江戸に於いて太夫は寛延宝暦度には絶滅している。京大阪では明治度まで太夫がいたためこの言葉が残っていたらしい。門司にこの言葉が残っているのは関西文化圏である証しでもある。関東ではそれぞれ芸者屋、待合と呼んでいた。


元清滝の路地を上ると地の人は権現様と呼んでいる清年(きよとし)神社がある。鳥居の横には芸妓らが奉納した狛犬が鎮座する。この神社には今尚色街の艶がある。ここの名物威海衛から持ってきた日清戦争の戦利品を知る人は多いだろう。しかし最も尊いことはこの神社が今でも地域のコミュニティとなっていることである。神社の清掃、修理は地の人たちの手で行い暮には注連縄作りのために集まる。

静かな会話がここにある。

2007年6月24日日曜日

和布刈神社



レトロに騙されたと思った観光客もこの風景を眺めれば留意が下がる、元は取ったと思うことだろう。対岸の下関、仲を取り持つ猛々しい水の流れと喘ぎながら行き交う数多の船は絶景に相応しい。

和布刈神社で先ず誰もが知っていることと言えば和布刈神事であろう。福岡県無形民俗文化財に指定されている。が、これが曲者なのだ。国や地方自治体は宗教に拘わってはいけないことになっている。そこで和布刈神事は和布刈行事と名を改めさせられた。故に正式名称は「和布刈行事」と言う。こんな些細なことでも知っていれば自慢にはなる。

この神事はかつて秘事であった。
見ると眼が潰れると言われ付近の住民は正月になると中の明かりが漏れないように固く戸を閉ざし、秘事が終わるまでひっそりとしていたと言う。
いつの間にか観光名物になったが、今でも神事を見たことがない古老がいる。「見たことがない」と自らを卑下のではなく、「見たことがある」人に災難が降りかからないか按ずるのである。門司っ子を自負するなら「和布刈神事を見たことがない」ということが最大の自慢ではなかろうか。

そもそも秘事であったものを見て何の御利益があろう。物珍しさに人が集まるだけである。
ただ唯一和布刈神社に多大な御利益があることだけは間違いない。正月と旧正月の2度に亙って賽銭の雨が降る。

替わって甲宗八幡では出せば国宝物と言われる御神体がある。50年に1度の御開帳以外の公開はない。来年の4月には御開帳の由。
信仰に痩せ我慢は必要なのだ。