2012年1月31日火曜日

みなとだより


「みなと」という漢字は二通りある。
「港」は船が集まるところという意味であり、「湊」は水上の人が集まるところらしい。
つまり「みなとまち」は「湊町」と表記する方が筋目がよろしい。

そこに「みなとだより」という名称は妙味がある。


ちょっと秀逸である。

社団法人日本港湾協会が発行している、ちょっとマニアックな港の魅力満載の小冊子である。
たまたま手にしたのは2007年発行でずいぶん古いが、特集が「いま、地方の港が元気です」だった。


港湾といえば港湾施設を連想する。あらゆる物が行き交う物流の拠点である。しかしそれは港の一面にすぎず、生活に密着した大小様々な港があり、それらの港が日々の生活を支えているということを分かりやすく表現している。
たとえば土生港、一日の入港船舶数は200便以上、その9割がフェリーというから驚きである。
島嶼にとって航路はまさに生命線である。船はバスであり電車であることを実感させてくれる。
このような生活に密着した港は日本各地にあるのだろう。



地元門司港の特集があるかと探したら、「みなとがつくる美しい景観」という特集の中に門司港があった。2004年Vol.44と言うから、これまたずいぶん古い。

中に曰く、「もちろん歴史的建造物も重要な要素ですが、大切なのは関門海峡を取り巻く自然です。自然景観というものは、決して人を飽きさせません。施設に加え、自然景観をいかに採り入れるかということも、事業を進めていく上でとても重要視しました」

その通りだと思う。この時期に歴史以上にすばらしい関門の自然景観に着目している人がいた。
門司のシンボルである門司港駅が近々長期に亙る改修工事に入る。門司を単に歴史の街と捉え、これを観光資源と考えている人々にとってこれは恐怖であろう。
しかしもっとすばらしいものがこの港町にはあることをこの冊子は教えてくれている。

港は生き物である。変化は当然起こりうる。その変化を受け入れ楽しめることが大切ではないだろうか。

2012年1月11日水曜日

手紙の書き方

実家で明治時代の「手紙の書き方」の本を見つけた。「福岡広業編『普通広益明良用文』玉淵堂
明治15」である。表紙、後半は欠落し崩壊寸前であり、古本屋へ持ち込んでも価値はないだろう。昔故山本夏彦氏が読んでみたいと書いてあった「恋文の書き方」はさすがにない。しかし現代の「手紙の書き方」には載っていない様々な例文がある。

退屈だけど一例を挙げる。
年首の文
新暦の禎慶四海同風芽出度く申収め候潭府各位益ご清福被成御越年恭賀に候次に茅屋無異迎歳仕り候間乍憚(はばかりながら)御放神被下先は履新の祝壽まで余は期永陽之時候恐惶謹言

もう一つ
新婚を賀する文
小槧呈上致候 今般良媒の関に依り御婚儀万端相整い候由 御両親始め千曜万福目出度賀し奉候 依之倶白髪(酒の名前)一樽賀慶之験までに呈備仕候 謹言

行書で書かれてあり変体仮名が使われているので現代人には甚だ読みにくい。明治大正度の人たちにはこれが読めたのだろうか。
識字率は別として、たぶん読めたと思う。逆に活字の方が読めなかったのではないか。
今実家には大正度の我が家の家計簿と、同じく大正3年の高知県立第一中学校の教室日誌があるが、いずれも行書、変体仮名で書かれている。そして文末に付ける「候」は「ゝ」、「ヽ」と記されていることから、句読点のない時代、「候」は句読点の役割を果たしていたことが伺える。活字で「候」と書かれると、何のことかさっぱり分からなかったのではないか。また行書、草書で書かれてあっても、例えば文頭に来る「一筆啓上仕候」などは、ひとつの模様、デザインとして覚えていれば何のことはない。いくつかの模様が繋がって一つの文章になる。

文語の時代、手紙、文章は定型文であったから、いくつかのフレーズをコピー&ペーストすればどんな文章もたちどころに書くことができたはずである。文章を書くことが億劫ではなかったのではないだろうか。現代のように「好きなように書けばいいのよ」と教えられると逆に困る。私も小学校での作文の時間が苦手だったし、今でも苦手である。現代の国語教育が手紙文化を葬り去ったと私は思う。

さて内容を見ると、観蓮、看梅、観月、紅葉遊覧など季節の楽しみを誘う文、その返書が多い。
「新聞配達を頼む文」、「医師を招く文」などは今なら電話で済ます。これらは下男に手紙を持たせ走らせたのだろうか。自ら行くなら口頭で済む。
「年首の文」、「新婚を賀する文」、「死を報ずる文」、「悔やみの文」は今でも使えそうだ。
その気はないけど、とりあえず出さなきゃいけない人にはもってこいである。
「見舞い」「挨拶」「御礼」には必ず「手土産」云々とある。手紙と一緒に祝儀、土産は必需品だったようだが、今でも招待されると手ぶらは行けない。今は「金」だが昔は「酒」「季節もの」が多かった。それだけの違いである。
「今晩の納涼」の誘いを手紙で書いていたようだが、当時は一日数回も配達があったらしい。これは漱石の日記や手紙で何となく察しがつく。

手紙の他には役所への願書、届出の書き方がある。今では書式に則った所定の紙の所定の欄を○で囲むかチェックを入れ、自著とハンコで事足りるが、昔はそんなに便利ではない。
「営業願」、「商社願」の他に、「相撲興行願」や「変死人引取り願」といった現実離れした例文もある。

しかし大正度までは、相撲はどこでも盛んだったようで、門司の各村には代々受け継がれた名乗りがあり、各村々での大会、村対抗戦も行われていた。白野江では「沖の石」、「曙」、葛葉では「風師山」、田野浦では「走り船」などが代々の名乗りであった。
また明治7年の大里での相撲興行願が残っている。「例年通り」とあるから相撲は最大の娯楽のひとつであったのであろう。我が家の家計簿にも「相撲花」と書かれてある。これは相撲大会の祝儀であろう。
変死や行き倒れが多かったことは、今では想像つきにくいが事実だったようだ。古老に聞いたところ、農村には池が多く、年に数回は池に水死体があがっていたらしい。

届出では「出産届」、「死亡届」などあるが、本文が欠落しているので内容が分からない。このあたり、役所への届出は草書ではなく楷書で書かれてある。

以上は男性用の「手紙の書き方」である。実は女性には女性用の「手紙の書き方」があった。一葉女史の「書簡文範」がそれである。

退屈の極みだが一例を挙げる。
年始の文
改りぬる年の初めの御壽かど松の色かはらぬためしに申納め候御夫婦様はじめ誰君(どなた)様にも御揃ひ御のどやかに御年迎へ遊ばされ候御事いといと嬉しく存じ候此方(こかた)みなみな事なしに齢一つとり重ね候間御心安う思し召給はり度こぞは誠に思ひのほかの御疎々しさ去りどころなき罪のほども年立つやがて御目もじにて御詫び申上ぐべきを猶来客などのあわただしさに紛れて文にての略儀おぼしゆるし給はらば辱(かたじけな)く候此品ことなる事もなきを御年玉のしるし許(ばかり)にとぞ何も申延べ候てかしこ

無味乾燥な男の手紙との違いが一目瞭然である。
言い訳が美しすぎる。甲斐がいしく働く女性の姿が目に浮かぶ。どんなミスでもこんな始末書を出されたら許してしまいそうだ。

この「書簡文範」には男には書けない(というより男は書いちゃいけない?)様々な文例がある。
「徴兵に出たる人の親に」とか「出産の祝いの文」は思いやりと慈しみに溢れている。
女史の文才は文字から滲み出てくる美しさと優しさにある。これを口語訳で読んで面白いはずはない。