2010年3月10日水曜日

響灘奇譚2

幕府は金銀銅の流出を防ぐ目的で長崎貿易を制限した。正徳の新令(一七一五)である。中国からの貿易船は信牌がなくては商売が出来なくなり、そこであぶれた船が西日本の沿岸を彷徨うことになった。抜け荷の横行が始まった。
とりわけ取引が究竟だった海域は響灘であった。ここは筑前、豊前、長門の藩境であるため警備が手薄になりやすく、また白島、藍島など船を寄せる恰好の島が多かったからである。
幕府は近隣諸藩に抜け荷船の打ち払いを命じた。初めは大砲を撃ちかけ追い払う体(てい)を取った。しかし一向に減る気配が無い。
幕府は方策を転換する。「差し口」つまり密告の奨励である。密告がしやすくなるように法度も緩和した。そして捉えた抜け荷犯を密偵として遣うことを考えた。幕府の常套手段を海上でも遣おうという構えである。当時このような密偵のことを「目明し」もしくは「岡っ引き」と呼んだ。
実は幕府は密偵による探索を何度も禁止している。密偵とはいえ元は犯罪者である。公儀の威光を傘に悪事を働く者が多く、その弊害は目に余るものがあった。幕府は苦慮したに違いない。それでも密偵を遣う決断をした背景に、当時の抜け荷の深刻さを窺い知ることができる。

先生金右衛門は分限者としての資質を備えていたのであろう、いつしか抜け荷船の首魁としてその名は広く知れ渡った。先生(シャンスイ)とは日本の先生(せんせい)の意味ではなく、中国では敬称である。彼は中国服を着、中国語を話し、中国人と同化し、日本を案内する日本人を招き集め抜け荷の算段を練った。幕府は執拗に彼を追った。しかし常に航(かわら)を枕にしている彼を容易に捕まえることは出来なかった。そんな金右衛門もある差し口によってあえなく捉えられた。