2010年10月22日金曜日

響灘奇譚4

 仕組みがほぼ調った、享保五年六月九日(一七二〇年七月十四日)、金右衛門らは白島沖に浮かぶ一艘の帆影に目を付けた。響灘は穏やかである。
金右衛門、甚左衛門、又兵衛ら三人の目明しは密かに藍島へ渡った。先ず金右衛門と又兵衛が抜け荷船に乗り込むことに成功。又兵衛は事の次第を注進するために一旦帰倉し、首尾が上々であることを告げた。

抜け荷船の荷主は鄭来官(ていらいかん)、六十三名の船乗りを抱え、その筋ではかなりの大物らしい。小倉藩は直ちに長浜に二十艘の早船を用意し、十三日晩景、小倉藩総船取手役七十五人と藍島詰役人が藍島へ向け次々と出帆した。

ところが商談の最中、来官の船に金右衛門らが目明しであることを密告するものが現れた。
船上では金右衛門を切り殺すか海に投げ込むかの相談をしている。それを当の金右衛門は船底で静かに聞いていたという。
彼は命のやり取りを覚悟したに違いない。
しかし男振りは非常の時に鮮明になる。金右衛門は何知らぬ体(てい)で、今こそ岸に船を着け商売をすべしと迫った。それでも唐人らは前の密告があるをもって取り合わず、帰国すると言いだしたのである。
そろそろ潮時とみた金右衛門は、この張り詰めた空気の中、静かに船を去るという手際を見せる。先生(シャンスイ)と呼ばれた凄みであろうか。

金右衛門が帰倉しようとしていた矢先のことである。白島沖にまた一艘の抜け荷船が漂っていた。
金右衛門は直ちにこの船に乗り込み商談を始めた。そして藍島辺りに船を寄せるように約し、藍島にいる小倉藩の役人にその旨を注進した。
予(か)ねて金衛門の消息を待っていた取手方は、すぐに乗来すべき用意を始め、苫で人数を隠し、甚左衛門、又兵衛も上乗りして、亥の刻(夜十時)、洋中に乗り出した。そして唐船の一里ばかり前で火を上げると、又兵衛が唐船に乗り付け荷物船の来たことを告げた。
船中の金右衛門が唐船の帆を降ろさせ錨(いかり)を入れた処へ、取手方がすかさず乗り移り唐人らを打ち据えた。抜け荷の頭目三人を含む四十五人の生け捕りに見事成功したのだ。一人の犠牲者も出すこともなく。

2010年10月7日木曜日

出版で儲けてくれよ

出版における東京と田舎の違い、ひとことで言ってしまえば伝統だろう。 江戸時代、小倉や福岡の文化人は出版となると江戸や大坂に頼んだ。田舎に版元が無いわけではない。それでも彼らは中央を目指した。 それは印刷製本といった技術もさることながら、それ以上に出版に対する魂胆の違いが大きいと思う。 それは稼ぐという意識のあるなしではないだろうか。 出版が地方から発信されるようになってからまだ日が浅い。 たぶん「本」というものが文化の担い手という「認識」、ある意味「勘違い」が広がってからだと思う。 この勘違いのため、地方の出版社はいい情報、市民にとって必要な情報があればそれを広めようと努力するし、そうしたいと願う。 そして本を出す。読者はきっと理解してくれると信じる。 それで情報が広がればこんな楽なことはない。 東京の出版人はこの業界で儲けてやろうと企んで会社を興す。どんな業界であれ当たり前のことである。 きれいごとを言うのは易い。しかし心の底では売れてナンボなのである。 紙媒体というのは手に取ってもらって初めてそこに込められている情報が伝わる。 手に取ってもらうためにはそれなりの「工夫」が必要であろう。 売るための工夫なくして情報は伝わらない。つまり儲ける工夫があって初めて情報は伝わるのだ。 星加輝光の「小林秀雄ノオト」は名著である。 東京の大手版元がこれを出版しようとした。 ところがある作家がこれに校正で手を入れたため、星加は激怒し原稿を引き上げた。 手を入れた作家というのは江藤淳である。版元が本気で「売ろう」と考えていたことはこれで知れる。 結局は後年自費出版という形で世に出たが、売れる訳がない。たぶんほとんどの人には知られていない。 絶版になっていい本だったと言われ、また著者が亡くなって有名になる。 工夫のないものが売れないのは出版に限ったことではない。しかしそれでも構わないという人が多いのがこの業界の特色なのかもしれない。

2010年9月5日日曜日

東京っていいなあ

「洞房語園」から引用する。
五月廿八日の夜、小笠原家の侍衆十人ばかり大門口迄参られ、当所へ欠落者(かけおちもの)を付込んで捕へ候内、暫く大門の出入を止められ候へと頼み、大門の番人、五丁町中へ知らせ、大門を閉めて穿鑿するに、彼欠落者は江戸町二丁目河岸にて捕へられたり、類焼後町々木戸は無し、五町中大騒ぎしける、二丁目河岸に大工五郎兵衛と云ふ者、彼欠落者に出合、琴柱(ことぢ)にて働き少しばかり手疵負ひたり、小雨はふる曾我の夜討の手柄せしとて、彼の大工は御所の五郎兵衛と異名を取りたり、

この小笠原家と言うのは小倉藩らしい。
この事件を元に柳亭種彦は「浅間嶽面影草紙(あさまがたけおもかげぞうし)」を書き、河竹黙阿弥は「御所の五郎蔵」という狂言に脚色した。
地元小倉が拘わる出来事が芝居に掛る。ただし種でしかないが。そのことを地元の人間はご存じない。

また小笠原藩は江戸藩邸において稲葉小僧という盗賊に秀吉拝領の茶道具を盗まれたことがある。これも地元の人間はご存じない。知るのは東京の人間ばかりである。

田舎の人にとって公文書に載っていなければ無いも同然なのだ。しかし藩の恥を公文書に残すわけがない。今も昔も当たり前である。田舎のことがらは田舎だけを見ていては何も分からない。

昔のことだけではない。現在も然りである。
東京の凄みはそこにある。東京は文化、情報の配電盤なのだ。
どんなに東京を無視しようと首都は偉大である。

好きで住んでいるのなら他にもっと好きな場所ができれば移ればよい。そうもいかん人間の気持ちは分かるまい。
それが分らない人に囲まれるこんな田舎を早く引き払って都会に住みたいと願う今日この頃である。

2010年6月24日木曜日

中洲通信

すげー雑誌を見つけた。
中洲のクラブの名物ママが編集発行しているらしい。その名も「
中洲通信」。
ふつうミニコミ誌はその街固有の情報を愛情たっぷりに提供するのが筋である。しかし愛情以上の薄っぺらい溺愛がほとんどであり、地元の人からしらけて見られることが多い。
しかしこの雑誌は、いわゆる「その街」の情報だけを提供しているわけではない。
その街の市民が欲しい情報や知ってほしい情報は、その街にしかないというわけではないことをよく理解している。
博多という街の奥深さがそれを可能にしているのかもしれないが、北九州の雑誌編集者では想像すらできない内容である。それもそのはず、編集は東京なのだ。
同じ東京人による編集でも行政主導の「雲のうえ」を民間でやってしまうところが博多なのだろ。嫉妬せずにはいられない。
手にした号はたまたま東京の散歩が特集であった。しかし東京を意識しているわけではない。博多を知る上での材料の一つとして俎上に乗せてある。
東京だけではない。地方の他の街、否、世界中のどこの街、どんな人、どんな文化を紹介するにしても、博多を俯瞰するためにある。
いい本は売れない、その典型と言える雑誌である。しかし近々隔月で復刊するらしい。楽しみである。

2010年5月9日日曜日

響灘奇譚3

享保五年(一七二〇年)四月九日(五月十五日)、老中井上河内守は小倉藩主小笠原右近将監を役宅へ招き、一通の密書を渡した。右近将監は長崎奉行石河土佐守、大坂町奉行北条阿波守、さらに長州、筑前の江戸家老を小倉藩上屋敷へ招き、この密書について協議を行った。次に小倉藩用人野島要人に御用の次第を演(の)べ「帰国の途、大坂町奉行所へ出づべし」と命じた。
四月二十七日、野島は大坂町奉行所へ出頭、町奉行鈴木飛騨守より先生金右衛門、久保甚左衛門、播磨屋又兵衛の三人を引き渡され、同道帰倉するよう申し渡された。先生(シャンスイ)金右衛門は幕府の「目明し」として第二の人生を歩むことになったのだ。時に三十代前半の働き盛りといわれている。
滞在期間は六十日、大坂で二十両の軍資金が渡された金右衛門は小倉に着くと各藩の重役たちと何度も密談を重ねた。按ずるに、話は容易に進まなかったに違いない。「なんともいたしにくき事共多く有之候由(これありそうろうよし)」と当時の資料は語る。公儀の御用とはいえ金右衛門は元罪人である。士(さむらい)に対し難しい立場にいたことは想像に難くない。長筑両藩は早々この作戦から離脱し、「打ち払い」から「打ち潰し」へと激化することになる。

金右衛門は自ら船に乗り、海域の見聞を行った。沖買船は小倉から、加子は大阪より仕組まれた。事を隠密に運ぶため、抜け荷買いの品はなるべく多くの場所から少しずつ調えられ、その金は小倉藩より出された。中国人が最も抜きたがる「赤かね(銅)」は大阪より用意され、それは抜け荷買いの品と共に馬島、藍島あたりに囲い置くよう手筈が組まれた。
失敗すれば捨て置かれる。金右衛門は瀬戸際の中で仕組みを按じた。

2010年3月10日水曜日

響灘奇譚2

幕府は金銀銅の流出を防ぐ目的で長崎貿易を制限した。正徳の新令(一七一五)である。中国からの貿易船は信牌がなくては商売が出来なくなり、そこであぶれた船が西日本の沿岸を彷徨うことになった。抜け荷の横行が始まった。
とりわけ取引が究竟だった海域は響灘であった。ここは筑前、豊前、長門の藩境であるため警備が手薄になりやすく、また白島、藍島など船を寄せる恰好の島が多かったからである。
幕府は近隣諸藩に抜け荷船の打ち払いを命じた。初めは大砲を撃ちかけ追い払う体(てい)を取った。しかし一向に減る気配が無い。
幕府は方策を転換する。「差し口」つまり密告の奨励である。密告がしやすくなるように法度も緩和した。そして捉えた抜け荷犯を密偵として遣うことを考えた。幕府の常套手段を海上でも遣おうという構えである。当時このような密偵のことを「目明し」もしくは「岡っ引き」と呼んだ。
実は幕府は密偵による探索を何度も禁止している。密偵とはいえ元は犯罪者である。公儀の威光を傘に悪事を働く者が多く、その弊害は目に余るものがあった。幕府は苦慮したに違いない。それでも密偵を遣う決断をした背景に、当時の抜け荷の深刻さを窺い知ることができる。

先生金右衛門は分限者としての資質を備えていたのであろう、いつしか抜け荷船の首魁としてその名は広く知れ渡った。先生(シャンスイ)とは日本の先生(せんせい)の意味ではなく、中国では敬称である。彼は中国服を着、中国語を話し、中国人と同化し、日本を案内する日本人を招き集め抜け荷の算段を練った。幕府は執拗に彼を追った。しかし常に航(かわら)を枕にしている彼を容易に捕まえることは出来なかった。そんな金右衛門もある差し口によってあえなく捉えられた。