2009年12月15日火曜日

白野江村志

江戸期を通して、江戸直轄地、関東の大名は、死刑の宣告を受けた罪人すべて、遠国大名は、重罪により死刑の宣告を受けた罪人すべてを幕府に届け出なければならなかった。もし仮に冤罪が発覚しようものなら、上様のお耳に達することになる。即ち殿様は言うに及ばず、罪人を取り調べた役人、刑を宣告した役人には相応の捌きが下されたに違いない。自然取調べは慎重にならざるをえない。命の尊さは今も昔も変わらなかった。 

『豊前叢書』の中に「行刑録」という小編がある。 
小倉藩での重罪犯(死罪)のみを抜書きしたものである。これに似たものとして、長崎奉行所の「犯科帖」は有名であるが、それに比べてこの小編に記録されている罪人はあまりにも少ない。明治初めの混乱期に散逸したと思われる。これ等の史料は、当時何の価値もなかった。古紙は高く売れたので、売却したものもあるらしい。 
重罪人の中に白野江村の住人がいた。門司区の中で唯一の重罪人が、白野江村の住人であった。罪人は坊主とその一味。罪状は呪詛らしい。 
何かしらの手がかりがあるかと思って「白野江村志」をめくってみた。 

「白野江村志」は門司六郷の中では興味深いものの1つである。 
天保6年の記録では本高398石27斗、直接税196石56斗、内控除42石29斗、その他間接税。住民664人。門司六郷の中では比較的人口が多いにもかかわらず、その割には収穫量が少ない。大雑把に1人1年5斗食べるとすると足りない。同じく恒見村、今津村も住民に対する石高は少ないが、漁業を生業にしている人が多かった。しかしここ白野江村は、遠浅のためか漁民がいなかったと記録にある。さてどうやって食べたものか。どうやら田野浦が近かったので、そこに出稼ぎに行くか、硯を作って食っていたらしい。もちろん難破船からの略奪もおいしい仕事だったに違いない。 


ひとつのトピックがある。 
天和元年、小倉長浜で難破船が見つかった。その船には阿波藩からの亡命者が乗っていた。一行は6名、延宝6年に阿波を出奔し、安住の地を求めて四国中を巡っていたが意に任せず、熊本の親戚を頼って船に乗ったところ、小倉沖で難破したということである。小倉藩は彼らを手厚く介抱し、白野江村に土地を与えた。彼等は土地を開墾し、硯を作って生計を立てた。ここは白野江の奥深い山の中であるが、田野浦から通じる昔からの道がある。交通の便は意外とよかったのではないかと想像する。 

彼等亡命一族は、阿波から一体の観音様を携えてきた。安住の地では民家の一部屋に安置され、爾来現存する。『門司郷土叢書』には観音堂とあるが、昔から観音堂を建てたことはなかったらしい。観音様は立派な銅製の厨子の中に納まり、秘仏とされている。窺い知ることはできないが、弘法大師に似ているのではという話であった。普段は、固く閉ざされているこの厨子とその横にお出でになる「脇付き様」に礼拝する。仏教には詳しくはないが観音菩薩は阿弥陀如来の脇侍として勢至菩薩と共にあるらしい。そうすると「脇付き様」は勢至菩薩であろうか。 
今でも年に一度、昔の一族が集い、ささやかなお祭りをするという。 

中世以来の遺物は各地に現存する。が、それだけである。生活に溶け込んだ「日常」として残っているものは少ない。 
受け継がれる伝統風俗は無形のものが多く、伝承は面倒である。ひと度絶えると復旧は難しい。きっとどこの家庭にも昔からの言い伝えがあったのかもしれないが、「快適」と「合理的」には勝てないのだろう。いつ毀れるか分からない現物より、無形の継承の方が大切のような気がするが如何なものだろう。 

時代が降って文化9年4月、高田屋嘉兵衛がこの白野江村に立ち寄り、この観音様に花瓶を一対奉納している。このことから、出奔した一族と嘉兵衛が何らかの関係があったのか、またはこの事件が当時の蜂須賀藩では周知の事件だったのかと想像してみた。 

武家の出奔は大事件である。 
小倉に記録があるのなら阿波にも記録が残っているかもしれないと思い、徳島県立図書館へレファレンスをお願いした。しかしあらゆる資料を渉猟してもらったが、どの資料にも該当する人物、事件はなかったという返事であった。調べていただいた資料の殆どは藩の公文書であった。 
ちょっと穿った考えだが、阿波藩はこの事件を意図的に削跡したのではないか。もしそうだとしたら公文書から歴史を抹殺することはあまりにも容易い。しかし公文書に残っていなくても、もしかしたら民間伝承に残ってはしないかと、負け惜しみの空想もしてみたい。 

門司硯については『門司郷土叢書』に小編がある。 
門司硯は文字硯と掛けられ、硯についての詩が多く残っている。また「優美高尚にして質頗る堅牢なる」ため、遠く江戸大坂では珍重された逸品であった。江戸期には数十軒の硯彫刻師がいたと当時の記録にある。文政度にはお上へ、明治大正度には天皇陛下へ献呈されていることから小倉藩、福岡県では名品だったことがうかがえる。 
慶応度の門司硯の値段は、高いもので3匁5分、安くて7分。時代は違うが元禄度の江戸の日雇取りの日給が2匁5分、レストランのサラリーマンシェフの日給が4匁という記録があることから、決して安いものではなかったであろう。ただし当時の一般的な硯についての資料には寓目していない。 

硯に適した石は門司港から大積地区の山全般で採れていたらしいが、白野江で盛んになった理由は、田野浦という貿易港が近くにあり、輸出が容易であったからではないかと想像する。また一部下関に輸出し、赤間関(赤磨化石)硯というブランドでも売られていた。これは門司という地名より下関の地名のほうが有名だったため、時の商売人が「名より実」を取ったものである。地名のブランド化は今でも難しい。 

時代は降り明治の終わりには硯彫刻師も数人になり、いつしか硯彫刻道具も散逸していった。硯を作るよりおいしい商売ができてきたからである。誰しも楽して稼ぎたい。硯の材となった石は、民家の敷石として余生を送っているものもあれば、道路の敷石として採掘されているものもある。 

と言うことで、冒頭の事件についての記録はなかった。 

2009年12月6日日曜日

響灘奇譚1

日本が泰平の恩寵に恵まれていた江戸時代中頃のことである。
先生(シャンスイ)金右衛門という男がいた。
生まれは長門とも筑前とも謂われている。幼い頃、父に連れられ長崎へ行き、そこで商一通りを覚えた。海運を生業(なりわい)にしていたのであろうか、驚くことに中国に八年もいたという。時代(とき)は鎖国の真っ只中である。

鎖国とはいえ日本は長崎を通し貿易を続けた。細々ではない。輸入品は日本の流通に深く根を張っていた。
輸入品は人参、麝香(じゃこう)、蘇木(すおう)などの薬や紗綾、綸子、緞子などの絹織物が多くを占めた。高品位の絹織物はまだ国産できなかったのである。また日本の菓子文化の源(みなもと)である砂糖も多く輸入された。長崎街道が後にシュガーロードと呼ばれるほど、北部九州は世界屈指の菓子王国へと成長しつつあった。
おもな輸出品は銅であった。中国人、オランダ人にとって銅は金よりも貴重であった。当時、銅ほど一般に広く使用された金属はなかった。銅銭はアジア一帯で広く流通し、水差し、たらいなどの台所用品から船や大砲の材料として銅の用途は数え切れないほどあった。中国では鋳造した銅銭を溶かし、地金にして売る者が絶えなかったという。日本の銅は魅力的だったのだ。

金右衛門は中国に滞在中、「書」、「詩」など一連の教養を身につけた。併せて国際人としての知識、感覚もふんだんに享受したに違いない。彼は当世無双の国際人に成長した。かの地で暮らすうち、どうやら幕府の鎖国政策がいかに理不尽であるか身に沁みたらしい。彼は抜け荷に手を染める。