2007年10月18日木曜日

門司往還


まだ往時の姿で古道が残っている。
手向山トンネルを小倉方面へ越え少し行くと線路側に細い道がある。二人並んで歩けないこの細い道が江戸時代、門司往還と言われた当時の幹道の跡である。司馬江漢、太田南畝、吉田松蔭が歩いた道の跡なのである。

旧電車通りから門司側へ、道はY字に延びている。往時、手向山は海峡へ突き出で、線路側には松並木が続きその先は波打ち際であった。
この街道を塞げば小倉への道は遮断される。豊長戦争で最大の激戦地であったことも頷ける。

西鉄の前身九州電気軌道の開通は明治44年である。明治30年代の地図を見ると、門司往還は依然門司小倉間唯一の幹道であった。

道を歩くとポツポツ民家が立ち並んでいる。が、殆んどは空き家で、アスファルトの隙間からは草が伸び放題である。今では通る人も稀なのであろう。
先へ進むとクリーニング工場がある。人気のあるのはこの一角だけ。既に忘れられて随分と月日が流れているようだ。その先は舗装はされているがもう森の様相である。鎌か鉈でもないと入って行くのには勇気がいる。そこから無理矢理に20mも行くと道は行き止まり、線路によって分断されている。
前記の地図に由ると、この辺りで線路と交差している。明治度には踏み切りがあったのであろうか。

今は旧電車通りの山側の谷に地蔵が並んでいるのが見える。水かけ地蔵という。往時はこの行き止まったところに並んでいたらしい。地蔵の台座だけは残っていると古老の話しであったが、鬱蒼とした森の中では確認の仕様がない。この水かけ地蔵が昔の門司と小倉の境界だったと言われている。

門司往還はこれより大里宿を経て遥か甲宗八幡、旧門司へと続く。ここは古代からの船着き場があったところである。

長崎街道は脇街道にも関わらず幕府の直轄であった。江戸時代唯一の貿易港であった長崎に通じていたからである。
大里宿を長崎街道の起点とする説がある。理由として考えられるのは下関へ渡る際、小倉より大里から渡る人の方が多かったこと。相応の人馬が調えられ、幕府の定めた賃金で使役されていたことなどが挙げられている。これは脇街道並の処遇であった。実質的な長崎街道の起点だったことは間違いないであろう。
また中津街道の起点とも言われている。中津街道の一里塚や道標が大里のお茶屋(本陣)が起点であったこと、豊前豊後の大名の参勤交代や宇佐神宮への勅使は、小倉城下を経由せず、手向山の東側から鳥越を抜け、黒原で小倉城下の中津口から来た街道と合流する道を歩いていたということである。

しかし小倉藩の文書のなかでそれが明記されていない以上、大里宿がこれら脇街道の正式な起点であったと考えるのには憚りがある。
オランダのアムステルダムやボリビアのラパスは首都機能が殆んどはないにも関わらずそこが首都であるのは、憲法にその旨が明記されているに他ならない。大里宿が長崎街道、中津街道の起点であるならば、その旨が明記された小倉藩の公文書の発見が必要なのではないだろうか。