2011年1月7日金曜日

響灘奇譚5

金右衛門の役目は抜け荷犯を捉えることだけではない。彼は捉えた抜け荷犯の吟味にも通詞として立会い、また彼らの助命帰国をも嘆願した。彼らとて好んで法を犯したわけではないことを金右衛門は解っていたのである。そして後に刑期を終えた抜け荷犯たちは無事帰国の途に着くことになる。
金右衛門ら三人の目明しはこれらの功により幕府より十人扶持を賜った。
また、藍島に今に残る大旗揚場は金右衛門の指図により建てられたものである。抜け荷船が近づくと、それを小倉に知らせるためにここに大旗を揚げ、ここから揚げた紺地に白の三階菱付き大旗は、堺鼻(櫓山荘跡)からよく見えたという。

武力による打ち払いには等倫(なかま)が結束して事に当たればよい。しかし差し口、目明しによる探索は等倫に疑心暗鬼を生む。結束の緩んだ組織は溶解する。
畢竟(ひっきょう)ここ響灘での抜け荷は減少し、自訴が相次いだ。
享保八(一七二三)年、小倉藩は抜け荷の終息を住吉神社迂宮(せんぐう)という形で宣言した。藩主自らの見分により、大里の地が選ばれたのは偶然ではあるまい。ここから眺める夕景は「入日の松原」と謳われ、今も人々の心を潤す。社地壱反五畝十八歩(一五四七平米)と二十石の寄進とを併せ、これは安堵の顕(あらわ)れであろう。

先生金右衛門は以後幕府の手先として全国各地で活躍したという。しかし世間並みの渡世ではない。仕事も人物も表に出ることはなく、彼は謎の人物として、あるいは歌舞伎や小説の荒唐無稽なモデルとして歴史上に名を留めるのみである。
街の発展に伴い、神社は移転縮小した。しかしここ住吉神社には先生金右衛門の足跡が確かに残っている。