2019年5月17日金曜日

戸上神社満隆寺静泰院


寛平年間(889~898)、柳ヶ浦の漁師重松大江がある夜、海上で漁猟していると網の中に光る物を得た
大江はその光明を妖しみ、海岸の根が二股に分かれた松の木(根二之松という)の根元に埋めた
そして馬寄村に住む伊古野大学と弟の伊古野刑部いう兄弟がこの御霊を持ち帰り、屋敷に奉安していたが、ご神託により戸板に乗せ戸上山山頂にお社をお造りし祀ったのが戸上神社の始まりとされている
伊古野氏は戸上神社の創建に関わって以来千百年余り、代々宮柱として神事に携わっている

ちなみに十月十日に上宮より秋季例大祭の御巡幸のため御霊を山神輿に乗せて麓の本宮へ御移しする神事を御降りの神事といい、大祭が終わり本宮より二十三日に上宮へ移される神事をお昇りという

戸上神社は古来より大里の氏神として信仰が篤く、大里の浜を租借し船屋敷を構えていた久留米藩から奉納された鳥居や絵馬、大里宿の有力者や明治末から大正時代に栄えた鈴木商店ゆかりの会社から奉納された玉垣が残っている

  

戸上神社の境内の西側に真言宗のお堂がある
大同元年(806)、遣唐使の使命が終わり帰国途上であった空海が戸ノ上山を仰ぎ見、この山が霊峰であると感じ、麓に一宇を建立、随身供養の観音像を安置されたのがここ満隆寺の始まりである
中世には隆盛を誇り、七宇を擁する大寺院として発展した
今に残る寺内という地名と戸上神社の境内に残る石仏はその名残である
戦国時代の戦乱より次第に衰微、明治時代の神仏分離令が決定的となり現在では小さな祠だけが往時を語ることとなった


天龍山静泰院は万治年間小笠原長俊公追薦のため、当時小倉開善寺の隠居地だった当地へ長俊の息小笠原長繁によって結構された祖堂である
明和七年、開善寺を退隠した蘭山老禅が寓住するにおよび、その学徳を慕い全国より参学を請うて至るもの多数、盛大を極めた
寛政九年、蘭山は京都竜安寺に入院、以来中興の兆しありしも寺運はしだいに衰頽し今は一小堂を配するのみとなったが、院境には蘭山の墓をはじめ当院関係諸僧の墓碑、大里宿に設置されていた長崎番所在番武士の墓石などが往時を偲ぶ

毎年四月二十九日には蘭山忌として付近住民により蘭山の遺徳を慕い名蹟を顕彰している

開善寺の隠居地だったということは静泰院以前にも御坊があった可能性もあるが今となっては判然しがたい