2011年2月17日木曜日

三宜楼のかほり

昭和初期、ニューヨークの株の大暴落に始まった世界恐慌は日本でもその猛威を振るった。門司もその例外に漏れず、鈴木商店の破綻、数々の労働争議により市 内は失業者で溢れかえっていた。中でも海運業の打撃は大きく、沖仲士の3分の2が失業という惨憺たる状況にあった。と、これは統計による状況である。
当時門司市民はいったいどのような生活送っていたのだろう。

不況時に都市への人口流入が加速するのは現在でも同じであるが、門司は近隣町村や外国からの労働者の大量流入があった。まずは住宅事情の悪化が問題になったはずである。
実はこの当時門司では住宅業界は好景気に沸いていた。住宅地の王様は大里地区であるが、門司では黒川、上本町、清滝が住宅地として盛んに開発され ていた。黒川、上本町からの通勤は遠かったのではと考えがちであるが、この当時、門司にはバス会社が2社あり、昭和6年には新たにメカリバス会社が営業を 開始し門司駅(当時)和布刈間を往復している。中でも門司自動車は停留所にベンチを置いたり少女車掌を採用したりして門司の住民には人気があった。いつの 時代も女の子の笑顔に勝るものはない。
同じ時期に和布刈遊園地が開園、栄町には門司で最初のデパート「門司デパート」がオープンした。また後に頓挫するが関門橋建設計画が具体化しつつあった。みなと祭りやイベントは、いつものようにドンチャン騒ぎ。不景気でも門司の住民は明るい未来を信じていたのだ。

門司の総人口が11万人をやっと突破した頃、色街で働く女性たちの数は1200人を越えていた。これは実に総人口の1%強に当たる。市当局が把握していた数だけでこれである。門司を語るには色街を抜きに出来ない理由がここにある。

国際航路で賑わいを見せていた門司港に、荷物を満載した外国船が入港する。扨々ひと戦(いくさ)始まる気配を感じると、姐さんたちは戦の準備に余念がない。
こういう日は当時一流の料亭と言われた萬檣楼(ばんしょうろう)、菊廼屋(きくのや)、金山で芸妓の総揚げが行われるのだ。

陽が沈み、船溜りに赤い燈がおちる頃、弦歌の声がバスや円タクの騒音をかき消そうとしていた。
門司の街は一段と輝きを増した。
勝ち目のない若者たちは早々に内本町のカフェー街を闊歩した。当時彼らは内本ブラと呼ばれていた。

手薬煉(てぐすね)引いて待ち構えていた門司の女軍たちには、彼ら荒くれ船乗りたちを返り討ちにすることは他愛もないことであった。
そりゃあ板子一枚で地獄と娑婆を仕切っているゴンゾウたちと、日頃のお付き合いのある門司の姐さんたちである。そこいらの船乗りが敵手になるはずもない。
ゴンゾウたちを飴のようにコナすには、相当の意地と、張りとオシと腕とが必要だったに違いない。その代わり彼らに特有なザックバランな気質が感染した。関門を吹く潮風と相俟って独特の門司芸妓気質がこうして生まれたのだ。

姐さんたちの朝は早い。とりわけ門司では七分(しちぶ)と呼ばれていた半玉たちは、朝9時には先輩姐さんたちに挨拶に行かなければならなかった。 彼女たちは先輩姐さんたちの前日の着物の片付けや身の回りの世話をしなければならなかったのだ。1日でも早く左褄(ひだりづま)をとった方が先輩である。 序列は歴然としたものであった。10時から券番での稽古が始まる。「門司芸伎の自慢は」と尋ねると「芸」という言葉が返ってくる。券番での稽古は厳しいも のだったらしい。遠く東京から名立たる師匠を招き三味線、お囃子、踊りの他にお茶の嗜みまであった。それが毎日午後2時まで続いたのだ。また故出光佐三は 芸妓たちの芸のために「風師会」という組織を主催し、芸妓たちは月に1度、三宜楼の大広間で三味や踊りを競った。芸妓たちにとって「風師会」で認められる ことが何よりの名誉だった。
姐さんたちは稽古が終わると午後2時頃から銭湯へ行き汗を落とし身支度をする。内湯があっても銭湯へ行っていた。遅く行くと先輩の背中を流さなくてはならないので、若い芸妓は早くから銭湯に行ったらしい。今も昔も若い娘はちゃっかりしている。
芸妓の着物はハンパではない。帯の締め上げは男衆(おとこし)の仕事であった。4時には支度が出来上がる。早ければ5時、遅くとも6時には御座敷に揚がった。
客たちは夜が更けるまで姐さんたちの三味や踊りに酔いしれた。
このような風情も今は昔。わずかに昔の俤(おもかげ)を偲び得るのはここ三宜楼だけになってしまった。

さて「三宜楼」である。
先ずは「三宜楼」の名前の由来について考えてみたい。「宜楼」は普通「妓楼」と書くが、「宜」には饗宴の意味がある。「三」は聖数なので、つまり多くの人に楽しんでもらう場所という意味と解釈したいが如何なものであろうか。
実は三宜楼は再建であった。明治時代から営業をしていたらしいが、そのことについての確実な資料は残念ながら渉猟しきれていない。この再建の際に 毀された旧三宜楼の廃材などを使って、清滝地区には貸家が建築されている。三宜楼はただの料亭だが、それだけではなかった。街づくりの中核を担っていたの だ。
竣工は昭和6年。当時の門司新報によると昭和6年4月2日から1週間掛けて新築披露宴が行われ、飲めや歌えのドンチャン騒ぎが繰り返されていたら しい。同じく門司新報の記事では「(前略)新古の粋を萃(あつ)め優雅にして堅牢の間取りの如きも大小十五を算し且つ眺望の佳なると相俟(ま)ち料亭とし ては北九州の偉観を呈している」(昭和6年4月5日)と書かれていることから、門司っ子にとってそれは大いなる自慢であったに違いない。

芸妓たちは裏玄関から上がり、2階の控え室で出番を待った。七分たちは姐さんたちの三味や囃子の準備に忙しい。宴会は主に3階を利用した。迷路の ような廊下、複雑な造りはお客さん同士が顔を差す(鉢合わせする)ことのないような配慮である。もちろん姐さんたちの口は堅かった。どこで誰が来ているか なんて誰にも分からなかったはずである。しかし隣の客をこっそり盗み見する部屋もちゃんと用意されてあった。それは当時一流といわれた料亭では当然のこと であった。
花街が最も賑わったのは忘年会シーズンだったことは言うまでもない。姐さんたちは掛け持ちで大忙しだった。掛け持ちのことを門司では「もらい」と 言った。それでも売れっ子の姐さんたちは「是非もらい」という催促まで来るほどであった。暮れがおし迫った三宜楼では、調理場で餅つきが行われた。板の間 には芸妓衆が勢ぞろいし三味や囃子で「餅つき唄」が歌われた。それは威勢がよかったと人は言う。門司の栄華は永遠に続くものと思われた。

つづく

※ 表記は昭和初期「門司新報」に従った。
「見番」は門司では「券番」と表記されていた。
「料亭」は戦後の「料亭」ではない。酒や料理は料理屋からの仕出しであり、東京では「待合」と呼ばれていた。


2006.7.24 mixiの日記より


2011年2月12日土曜日

響灘奇譚 付(つけたり)


密輸で抜いた荷の多くは下関へ船で運ばれ、そこで待ち受けた別の船に積み替え、瀬戸内経由で大阪へ送られた。陸路で送られる輸入品は小倉で吟味があった。それを避けるため、長崎周辺で抜かれたものもひとまず下関まで船で運ばれたという。
江戸時代の輸入品のうち、抜け荷が占める割合は約二割という下説(げせつ)がある。下関の繁栄は北前船ばかりではなかったのかもしれない。
抜け荷船に対し、長筑両藩は小倉藩と対照的な応接をした。享保五年(1720)、黒田藩は抜け荷船に火を掛け船員を鏖殺(おうさつ)した。また享保十一年(1726)、毛利藩もまた唐船(とうせん)一艘に対し殺戮をおこなっている。まさに「打ち潰し」であった。ところがこの船には信牌が与えられていた可能性があった。この事件に中国側は信牌所持の有無を確かめることを幕府に願い、婉曲に砲撃停止要求の意を含ませた。そしてこれを最後に、十年に亙ったこの海域での抜け荷は跡を絶った。ものごとの終息とはこういうものかもしれない。
しかし、長筑両藩にとってこの戦いは完勝であったことは間違いない。この経験が遺伝子となり、後の異国船打ち払いや過激な攘夷思想に繋がったのかもしれないと淡い想像も悪くはない。