2007年11月25日日曜日

英国領事館誘致一件 その1

「昭和27年1月5日の『西日本新聞』」より、
「英政府は3日、対日平和条約批准書を米国務省に寄託したが、英外務省は5日批准完了を正式に発表するとともに、次ぎのように語った。
(中略)対日平和条約はなお米国および特定調印国の過半数の批准が完了しなければ発効しないが、大使の交換と外交の再開はそれ以前でも可能である。(中略)
英国政府はすでに外務省極東部長サー・エスラー・デニング卿を戦後最初の駐日大使に任命していた。(後略)」

門司市の動きは早かった。同日(1月5日)起案(決裁日不明)の門司市の内部決裁文書がある。
「主要外国領事館門司市誘致陳情書、伺主要外国領事館を門司市に誘致するための陳情書別紙の通り市長、議長、(門司市商工会議所)会頭名にて作成陳情してよろしいかお伺い致します」

余談ではあるが、内部決裁文書の中に薄っすら「斉藤」という印が見える。彼は門司市職員の傍らYMCAの牧師をされていて英語に堪能であったため、在門司米軍との周旋窓口に当たっていたらしい。詳細は不明。また「宮本」という印も見えるが、彼は昭和21年門司市役所に入庁。斉藤氏と同じく英語が堪能であったようである。彼は後に経済企画局長を歴任されていたらしいがこちらも詳細は不明。この一件における英国外務省、大使館と交わした文章、手紙の翻訳はこの両名によるものと思われる。

閑話休題

直ちに陳述書を作成(昭和27年1月18日付)。中野真吾門司市長(当時)は吉田清門司税関長(当時)を同行し、自ら東京半蔵門の英国大使館に持参する。

当時の門司の状況を振り返ってみる。
門司港は戦争による港湾施設の破壊と機雷による海峡封鎖の結果、その機能を喪失し、22年まで外国貿易は途絶状態にあった。掃海作業と運輸省による港湾施設復旧工事がすすむにつれて港湾機能尾徐々に回復し、24年1月に関門港安全宣言、同年10月に掃海完了に伴う開港宣言がなされるに至ったが、外国貿易船の(昭和)23年中の入港はわずか70隻に過ぎなかった。朝鮮戦争を経た27年に至っても戦前(昭和10年)の10分の1程度の水準でしかなかったのである(「北九州市史編纂委員会『北九州市史』産業経済Ⅰ 北九州市 平成3」)。
安全宣言がなされたとは言え、まだまだ危険な海だったことは想像に難くない。港湾関連産業が基幹産業として自負していた門司にとって、港湾設備の早期回復と港のイメージアップ、外国船の入港及びそれに伴う産業発展は最重要課題であった。門司市はどうしても起死回生の一手が欲しかったことは十分に理解できる。

また陳情書の中に注目すべき一文がある。
「(前略)北九州五市は日本四大工業地帯の一として北九州工業地帯を構成し活発な経済活動を続けております。(中略)昨年(昭和26年)十二月八日八幡市で開催された北九州五市市長、市議会議長、商工会議所会頭よりなる会議におきまして『北九州五市には是非関係諸外国領事館を誘致せねばならないので最も適当と思われる門司市に誘致するよう運動する』との決議を致しましたがこれは北九州五市には貴国の領事館が是非必要であり設置に際しては門司市が他の四市に比して最も適当な場所であることを示す明瞭な証左であると信じます。(後略)」

既にこの当時から各五市の特長を活かした緊密な連携、協力体制が敷かれていたようであるが、当時の五市合併運動はどのように進められていたのか。

以下は「徳本雅彦『北九州市成立過程の研究』九州大学出版会 1991」の助けを借りる。
実はこの1年前に合併運動は頓挫している。理由は門司市の離反であった。
関門(下関を含めた)、洞海地域各都市の合併論争は明治20年頃から様々な形で行われてきたが、この戦後初の合併運動は「5市」という枠組での合併運動としては「第3次合併運動」と呼ばれている。
第1回北九州五市合併研究委員会が開催されたのは昭和23年1月14日。昭和25年6月9日には福岡県主催による「北九州合併協議会」が開催、同年7月1日には「北九州五市合併調査促進委員会事務局」が開庁し様々な調査報告を行っている。

(マスコミの動向を書く予定)

門司市はこの合併論には当初から反対の立場であった。北九州五市合併研究委員会には欠席。合併調査促進委員会においては合併促進への反対をはっきりと声明している。また県が作成したリーフレットを握りつぶし、門司市主催による合併反対の理由を説明する懇談会を各小学校で開くと、合併反対の「上からの世論づくり」を公然と行っていった。表向きは「公聴会」と称されていたが、事実上合併賛成派の議論抹殺であった。
今流行のサクラまで使い、あわや乱闘寸前という公聴会まであったという。

門司の場合には港湾都市としての発展以外には門司の発展は考えられないという観点があり、そのためには関門港の発展を進める方向で将来計画を追求していかなければならないという考え方が根強かった。そのためには5市ではなく6市、もしくは関門2市の合併を優先したいという思惑が多くの市民にあったことは想像に難くない。

また当時の門司市政の構造は次のような特徴をもっていた。すなわち門司市では伝統的に保守勢力が強く、市政の実権は旧政友会系の中野真吾市長を中心に過半数を占める民主党の手に握られていた。それに協調関係をとっていた「革新クラブ」は自由党の流れを汲んでおり、2派の議席数を合わせれば市議会議員の80%に及んだ。また経済界では木村悌蔵門司商工会議所会頭を中心とした保守系の商工関係者がバックアップしていた。
対する合併賛成派は市議派と県議派とに内部分裂し、門司市の動向は中野市長の手中にあったといっても過言ではない状況であった。
5市のうち戦争で最も壊滅的な被害を受けたのは門司市であり、復興にはまだまだ人材、時間、資金を必要としていた。港は未だ不完全な状態であるのに、五市合併により中心は小倉に移り、門司は場末の船着場への転落するのではないかという不安は常に住民の意識の中にあったのも頷ける。
市長、市議会議員は民選である。世論を無視できない状況にあったことは十分理解できるが、あまりにも強引のような気がする。

昭和26年2月3日、中野門司市長、杉本福岡県知事会談。
同月27日、両氏の二次会談は決裂し交渉は打ち切りとなった。
その後昭和34年まで合併運動には目立った動きがない。しかしこの陳情書を見れば5市は既にひとつの都市として存在し、政治的に頓挫したとは言え、行政面では着々と連携を強めて行っていたことが窺える。また、「北九州五市合併調査促進委員会」は細々ではあるが活動を続けていた。合併はこの5市以外にありえないということでは県を含めた行政も住民も大筋では認めていたのである。あとは住民への啓蒙と時期を窺っての議論再開への準備、結果論を加えるならば都市生活の変容が必要であった。

この時期の「五市合併運動」の頓挫は門司市の離反が原因ではあったが、5市の発展には港湾都市門司港の発展が不可欠であり、門司港の発展には英国領事館誘致が不可欠であり、英国領事館誘致には5市の連携が不可欠であるという相関関係が存在することを5市の行政サイドでは認識していたことがこの陳情書から見て取れるのである。

英国領事館の誘致には強力なライバルがいた。言わずと知れた下関市がそれである。下関市との対立はこれだけではなかった。門司海上保安部の下関移転、関門港務局設置、関門商品取引所の誘致など海峡を挟んで凄まじい火花を散らしていた。もし門司が関門合併を本気で模索していたならば、たかが領事館ごとき下関市にあっても何の不都合もないはずである。また門司市は北九州他の4市とも対立があった。5市協力による水道事業ではこの当時門司市は参加しない立場を取っている。
穿った見方をすれば、関門合併の主導権を握りたいという思惑でもあったのか、それとも港湾機能の回復を手土産に、五市合併に参画しようとでも思ったのか。領事館誘致に関して他の4市に協力を仰ぐところに門司市のワガママが見えなくもない。

中野門司市長が英国大使館へ陳情書を提出した節、どうやら英国政府が西日本に領事館を設置する用意があること、そのために英国大使を九州に公式訪問させるという情報を口頭で受けていたらしい。

門司市は戦後初となる「英国大使九州公式訪問歓迎晩餐会」に向けて準備を始めた。


(つづくと思う)

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