2007年11月27日火曜日

英国領事館誘致一件 その2

英国大使エズラー・デニング卿は、2月23日福岡にて講演、その後長崎大分を経て同月28日朝、門司へ到着した。

英国大使の門司での日程は次の通りである。(以下資料のママ)

2月28日
午前8時04分 門司駅着 直ちに市長乗用車にて折尾炭鉱へご案内
午後3時30分 炭鉱より門司帰還
市役所市長室にて小憩の後市長、市議会議長、商工会議所会頭より市政概況説明及び英国船会社代表と懇談
午後5時00分 門司市清滝町ユナイテッドシーメンズサービスへご案内、視察同所にて休憩
午後6時00分 門司市広石町山水園にて歓迎晩餐会
午後9時30分 山水園出発門司駅へ
午後9時52分 門司発下関へ

沿道での歓迎は大変なものであったらしい。日英両国の旗を振る小学生の前を英国大使はニッコリと会釈し、錦町小学校の生徒から花束を手渡されている。故ジョージ6世の喪服中ということもあって、白ずくめの花束という気の遣いようだったと当時の新聞には書かれている。(「新九州」昭和27年2月29日)

折尾炭鉱とは日炭高松炭鉱(当時)のことである。高松炭鉱は昭和26年、大規模な機械化合理化をしていることから、当時最新式の設備を導入していたと思われる。

英国船会社代表と懇談とあるのは、たぶんホームリンガー商会支配人トーマス・マルコム氏、ホンコンイースタン商会支配人マッケンジー氏、ドットウェル商会支配人(名前不明)と思われる。マルコム氏は、戦前下関において英国名誉領事を任命されていた。また当時マルコム氏の自宅は下関に在った。今の紅葉館がそれである。ホームリンガー商会については後述。

ユナイテッドシーメンズサービス(U.S.S)は当時「国連会員クラブ」と呼ばれていた。1942年、ニューヨークに設立、米国の友好国及びその他商船船員と船員の家族に娯楽、医療、教育等のサービス、救助と援助を提供する社団法人である。当時日本には横浜、神戸、門司の3ヶ所しかなかったことから、門司港の重要性はアメリカも十分認識していたことが窺える。中野門司市長は同年1月、日本人、アメリカ人各8名からなる「U.S.S港務委員会」委員に委嘱されている。「U.S.S港務委員会」とはクラブが民主的に運営されるように、毎月1回例会を開き、忠告などをおこなう組織であり、門司に最初に誕生した。
ここは九州訪問中の英国大使にとって母国語が話せる数少ない場所のひとつであったであろう。外国で暮らしている人間にとって母国語に接する機会ほど心が休まることはない。くつろいでいる大使に、門司市はここでもアメリカを使って陳情を繰り返していたことが想像される。


晩餐会出席者は以下の通りである。(資料のママ)

主賓
エズラー・デニング卿

陪席者
第一物産株式会社門司支店長 安部隆任
九州海運局長        荒船精一
門司港司令部司令官     ブローニン大佐
毎日新聞西部本社代表    藤原勘治
澁澤倉庫株式会社門司支店長 畑薫
前タイ国名誉領事      久野勘介
門司鉄道管理局長      石井英一
門司駐在運輸支配人     井沢克己
大阪商船株式会社門司支店長 茅田恭兄
日東貿易株式会社社長    木村民蔵
門司港司令部副司令官    ランバート中佐
ホンコンイースタン商会   マッケンジー
ホームリンガー商会     マルコム
第七管区海上保安本部    間庭健爾
日本製粉株式会社門司工場長 中川正夫
日本郵船株式会社門司支店長 中村徳三郎
ホームリンガー商会     岡村廣造
日本銀行門司事務所長    大塚秀治郎
内外通商株式会社門司出張所 関口禮彦
新九州新聞社代表      大野静馬
株式会社東京銀行門司支店長 正田栄三郎
門司税関長         吉田清
U.S.S.門司港支配人     M.B.ウインター

主催者
門司市長          中野真吾
門司市助役         柳田桃太郎
門司市議会議長       末松喜一
同副議長          野畑彦蔵
門司商工会議所会頭     木村悌蔵


分かる範囲で陪席者を述べる。
前タイ国名誉領事 久野勘介は当時久野商会主人である。久野商会は米穀商から発展した会社である。戦前から戦後の食糧難の時代まで、日本は外米を輸入していた。その関係でタイ国名誉領事を任命されていたのではないか。

ちなみに名誉領事と言うのは領事を民間に委託した場合の尊称である。英語ではTRADE CONSUL、外交官による領事をFUL CONSULという。
戦前の門司ではナター商会支配人、ホーレス・ナターがポルトガル名誉領事をしていたことがあった。自宅は門司市大里二十町。柳の御所には彼の名前の刻まれた玉垣がある。彼もまたホームリンガー商会の関係者であった。彼の家には一時藤原義江が暮らしていたと言われているが、それは藤原義江の戸籍上の父親ネール・ブロディ・リードがホームリンガー商会の支配人をしていた関係からと思われる。

日東貿易株式会社社長 木村民蔵は後に横浜の英国系貿易会社を通しての陳情をおこなっている。

ホンコンイースタン商会はホームリンガー商会が昭和27年、門司で営業を再開する際に多大な尽力をしている。

ホームリンガー商会について少し記す。
「会社の沿革」によるとホームリンガー商会は長崎の政商グラバーの後を引き継ぐ形で、グラバーの片腕だったフレデリック・リンガーとライル・ホームによって明治元年、長崎で設立された。
旧リンガー邸は重要文化財として長崎に現存していることから、当時の隆盛が窺える。
明治17年、ロイズ保険代理店の任命を受ける。ロイズの名前は有名であるが、現在日本での代理店はホームリンガー商会の他に1社あるのみである。
明治22年、下関に瓜生商会設立。支配人は瓜生寅(はじめ)。ここを支店として下関での活動を始める。
明治34年9月、下関に英国領事館が開設。当時はFUL CONSULであったが、大正3年よりTRADE CONSULに替る。
以来下関英国名誉領事はホームリンガー商会の支配人が勤めていたようである。
昭和15年、日本政府の令により会社は閉鎖。財産は没収され、当時支配人であったトーマス・マルコム氏はホンコンに逃れた。この時瓜生商会は旧来通り下関で営業をしていたらしいが活発な活動はしていなかった模様である。詳細は不明。
昭和26年、ホンコンイースタン商会及びドットウェル商会の援助によりホームリンガー商会が香港にて設立。瓜生商会は支店のままであるが、トーマス・マルコム氏は財産を戻され紅葉館に住居を始めている。
昭和27年、ホンコンイースタン商会及びドットウェル商会の援助により門司に日本本店を開設。場所は港町1丁目(当時)にあったホンコンイースタン商会の社内である。ドットウェル商会は門司市西海岸通り。
このホームリンガー商会の香港本社開設、門司日本本店開設に大きな貢献をした人物が番頭岡村廣造(ひろぞう)氏である。この晩餐会に陪席しているのはそういう関係ではなかったかと思われる。

ホームリンガー商会が門司に本店を開設したのは昭和27年2月である。このギリギリの時期ということが少し気になる。英国が以前のようにTRADE CONSULを任命するということが予想されていたならば、門司市と下関市との間でトーマス・マルコム氏の奪い合いが行われていたことは十分考えられる。門司市は大事なコマを手に入れたことになる。

門司商工会議所会頭 木村悌蔵は、山口高商(現山口大学経済学部)卒、平野屋を買収し「山城屋」の基礎を築いた。当時門司市における保守派の巨魁である。後に北九州商工会議所の初代会頭を務めている。

晩餐会の詳細は伝わっていないが、以上を見てみると北九州5市と門司の財界人、行政総力を挙げての歓待だったことは想像に難くない。


下関は英国領事館誘致の第一歩は門司に遅れを取った。しかし戦前の領事館がそのまま残っていること、戦前の英国名誉領事トーマス・マルコム氏が下関在住であることを武器に誘致運動を繰り広げていたと思われる。英国大使は28日夜には下関に向かう。29日には川棚で記者会見を予定している。新聞によると下関には何か「秘策」があったらしいが、詳細は伝わっていない。(下関市側の資料を読んでいないからである)



門司市の陳情はさらに続く。

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