2007年11月28日水曜日

英国領事館誘致一件 その3

昭和27年4月25日、福岡県は英国大使館誘致陳情書を外務省からロンドン在外事務所を通じ直接英国外務省へ提出した。当時福岡県知事は杉本勝次氏、ロンドン在外事務所長は浅海浩一郎氏である。占領下の日本にあって在外事務所長は実質特命全権公使であった。
陳情の場合、同じ陳情書を同じ場所に何度も送ることはない。手を変え品を変え陳情を繰り返す。門司市単独では既に提出してある。今度は福岡県が出張る番ということになる。

添付書類は次のような内容である。

陳情書(市長、議長、会頭連名)
添付資料1.戦前の状況、2.領事館門司市の設置の理由、3.領事館敷地建物の提供、4.陳情経過の概要
福岡県知事陳情書
北九州4市連名陳情書
県下並びに関係商工会議所重要貿易商社陳情書並びにサイン
領事館建物敷地の図面並びに敷地写真
現存下関領事館写真
英文資料
大使館との往復文書写真

まず.「陳情経過の概要」を見ると、これまでの陳情経過が分かる。
1月18日、市長自ら上京し英国大使館総領事オドワイヤー卿に陳情書を直接提出。
2月28日、英国大使エズラーデニング卿九州公式訪問。
2月4日、総領事オドワイヤー卿より陳情書の返信。
3月22日、再びデニング大使へ書簡送付。(これには門司財界人の署名捺印が添付されていたようである)
3月30日、デニング卿より返信。
4月9日、領事館敷地建物の図面を福岡県知事の陳情書に添付し外務省から英国大使館に正式に申達。
4月10日、福岡県土屋副知事、中野門司市長、木村商工会議所会頭は同書簡の写しを携行し英国大使館へ直接訪れ、オドワイヤー総領事に敷地建物についての詳細な説明を行う。


門司市が説明している「戦前の状況」では、在下関英国領事は領事代行(TRADE CONSUL)であり、ホームリンガー商会の支配人が兼務していたこと、ホームリンガー商会は現在門司にて活発に業務をおこなっていることが書かれてある。ホームリンガー商会支配人を門司に呼び寄せることが誘致を優位に進める上で欠かせないものであったと想像される。

「領事館門司市の設置の理由」には北九州工業地帯の復興、門司港の地理的優位性と同時に税関、海上保安部など国の出先機関の多くが進出していることが挙げられているが、この時期海上保安部、商品取引所、関門港務局、関門港内無線局などは下関と熾烈な争奪戦を繰り広げている最中であった。
「海運業のほとんどは下関ではなく門司にあり、門司に東京大手商社、外国貿易会社の支店が進出していること」は(結果的に門司の衰退を招くことになるが)、地方都市にとってブランドであることは今も昔も変わらない。門司の優位性を示す絶好の材料である。
また予想される領事はFUL CONSULではなく、TRADE CONSULであり、門司に領事館を設置することは海運業と領事の兼務が円滑に運営出来る旨記されている。当時下関港は水産基地という役割が強かった。もし下関側に領事館が置かれたならば「多大の時間的経済的不便を蒙り引いては海運貿易の発展に重大な支障を来す恐れが多分にある」など、下関市との差別化が記されてある。この文章には戦前の門司市に英国領事館が設置されていた旨は記されていない。ここで少し気になるのは大正度の門司市街図の市役所近くに「英国領事館」と表記してある点である。もし戦前の門司市に英国領事館が存在していたのであればこの添付書類にはその存在を明記しているはずである。また「新九州新聞社編集『関門北九州 官公・会社・紳士録』新九州新聞社 1953」によると、前出したホーレスナター氏が戦前の英国領事館誘致に拘っていたことが書かれてあるが、成功したとは書かれていない。大正度に表記されている英国領事館は大正のこの時期に誘致活動を展開し、予定地として表記されてあっただけで、誘致には失敗したということであろう。地図の表記だけで、ここに英国領事館が存在したと信じている人がいることは遺憾である。また現在同様この時代には毎年地図が発行されていたらしい。詳細に当たればいつからいつまで誘致活動が行われていたかも明らかになるかもしれない。

さらに「県下並びに関係商工会議所重要貿易商社陳情書」(表記は『要望書』、福岡県北部市町商工会議所会頭の署名会頭印あり)には「戦前下関市に英国領事館があったことは門司市が未だ発展をしていない経済事情に依って決定されたものと」信ずるものであり「過去の歴史に捕らわれることなく現実の経済情勢を」考えて欲しいと結ばれている。

「領事館敷地建物の提供」には門司市は既に領事館用の敷地を準備、建物の図面の存在を明らかにしている。敷地は36坪、鉄筋コンクリート2階建、建坪60坪であり、領事館業務が門司市に存続する限り無償で提供する旨記されている。領事に任命されればその任にある限りこの建物で家賃無料にて営業することができるということである。また直ちに領事館が開かれた場合は門司商工会議所会頭室及びその付属部屋を提供すると申し入れまでしている。陳情書に添付された敷地写真と建物の図面は在日英国大使館及び英国外務省に提出されていたはずであるが、その資料の存在は確認されていない。現存する下関領事館の写真を添付していることから、新たに建てられる領事館建物は下関領事館に匹敵する意匠でデザインされていたことが想像される。

英国下関領事館について少し記す。
建物のことは割愛する。
明治中期から昭和初期にかけて、下関にはイギリス、オーストリア・ハンガリー、ノルウェー、ドイツ、アメリカ、スウェーデン、ポルトガル、オランダ各国の領事館が存在していた。
下関に初めて英国領事館が設置されたのは1901年(明治34年)のことである。初代領事はフランク・W・プレイフェア、事務官はアングス・マクドナルドであった。初めは赤間町26番地(当時)、後に西南部町(当時)にあった瓜生商会に移転した。瓜生商会は明治22年、瓜生寅(はじめ)により設立された。石炭貿易とホームリンガー商会の保険代理業をおもな生業とし、総支配人はホームリンガー商会の支配人であることから、ホームリンガー商会の実質的な支店であった。
1906年、下関市より英国へ敷地が提供され、その敷地内に同国領事館が建築された。現存の領事館である。
大正3年、それまでのFUL CONSULからTRADE CONSULに替り、以来領事はTRADE CONSULが事務を執った。このTRADE CONSULにホームリンガー商会支配人が任命されていたようである。紅葉館はホームリンガー支配人リンガー氏がふたりの息子のために建てた建物であった。当時は木造洋館であり、「臨峡館」と呼ばれていた。そして紅葉館はいつの頃からか代行領事の公邸として使われるようになり、太平洋戦争で日本による領事館閉鎖まで続いた。戦前最後の領事はW・H・セイントである。藤原義江が知る紅葉館はこの木造建築のものであり(現存の建物は昭和11年竣工)、この建物は昭和40年代まで存在していた。
以上はホームリンガー商会トーマス・マルコム氏の手紙(宛先不明)から少し借用した。この手紙の日付は昭和27年2月とあるが、この時期、門司と下関とで領事館争奪戦が行われていたのは前出の通りである。
下関市は戦前の実績、領事館、付随する家具、調度品、領事公邸が現存することを主な武器として誘致活動を行ったであろうと想像される。


この「陳情書」は「秘」と記されていること、この件での新聞記事の初見は8月であったことから、ロンドンへの陳情は秘密裏に行われたと思われる。
外務省ではこのような競合が行われた場合、平等に取り扱うということであった。下関も同じような陳情を行っていた可能性があるがその確証は得られていない。
昭和27年4月28日にはサンフランシスコ講和条約が発効する。日本は外国との国交再開のため大使の交換が慌しく行われた時期であった。


(あと一回くらいはなんとかなるかも)

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