2007年6月25日月曜日

清滝・元清滝


料亭とは「料亭」と看板があれば即ち料亭である。店の主人が「料亭」と言ってしまえば、それがただの日本食レストランでも料亭である。是非も無い。

その昔、芸妓を置いている芸者屋、仕出し料理屋、待合の3つを三業と言った。その三業が軒を連ねる一郭が三業地である。これら三業は公安委員会(戦前は警察署)の許可の下、三業組合を組織し、芸妓の斡旋や料理屋の決済など事務処理をする見番を置いた。客が待合に入ると見番から芸者屋へ遣いが走り、料理屋からは料理が運ばれてくる。待合は客に部屋を貸すだけであり、そこで客は芸妓に酌をさせナニをするという寸法であった。
その中の料理屋と待合が一緒になったものを料亭といった。芸者屋と料亭で二業と言った。料亭という言葉は昭和になってボチボチ出てきた言葉なのである。

本来料亭とは役人と御用商人が結託する場所である。彼等御用商人は料亭で無理な遊びをした。彼らが思い切ってやっておくのは、必要なときに無理が通るように仕度しておくのと、策略が目立たぬように、平常自分の遊蕩を目慣れさせておくためである。故に料亭は路地を好む。暗がりを好む。東京神楽坂、赤坂の料亭然りである。
そこに料亭の味わいがある。そういう意味合いを込めれば清滝で迷子になっても時間の無駄ではない。


清滝通りは門司屈指の古道である門司往還の一部である。今でこそ車の離合できる通りではあるが、以前はこの道路いっぱいに民家が建ち並んでいた。戦災による延焼を防ぐ目的で民家が取り除かれたもので、今の三宜楼横の歩道が即ち本来の清滝通りである。馬車が一台やっと通れる広さであったことが瞭然とする。
そしてその山手に広がる元清滝には人一人が気持ちよく通れる路地が錯綜する。つまり二人では窮屈ということである。

門司の料亭文化は清滝に建てられた速門楼(そうもんろう)を嚆矢とする。以来この界隈には大正から昭和にかけて料亭が林立していた。今尚古びた料亭、置屋の跡がこの路地街には残っている。この狭い界隈には門司で最初にふぐ料理を始めたと言われている「文明」、高松宮殿下が定宿としていた「三笠」をはじめ、「春日」「音羽」「醍醐」など料亭の数は10を超えた。最盛期には芸伎衆が170~80人、置屋も20軒あったと言われていた。伊達を拵えた姐さんが七分を従え道を急ぐ。その頭の上から粋な三味の音が流れてくる。そんな風情が戦前にはあったのであろう。異名を「芸者横丁」と呼ばれる由縁である。


ちなみに「置屋」、「揚屋」は関西の謂々である。この言葉は元々遊郭から流れてきた言葉で、遊女の最上格太夫を置くから「置屋」であり、太夫を揚げるから「揚屋」であった。江戸に於いて太夫は寛延宝暦度には絶滅している。京大阪では明治度まで太夫がいたためこの言葉が残っていたらしい。門司にこの言葉が残っているのは関西文化圏である証しでもある。関東ではそれぞれ芸者屋、待合と呼んでいた。


元清滝の路地を上ると地の人は権現様と呼んでいる清年(きよとし)神社がある。鳥居の横には芸妓らが奉納した狛犬が鎮座する。この神社には今尚色街の艶がある。ここの名物威海衛から持ってきた日清戦争の戦利品を知る人は多いだろう。しかし最も尊いことはこの神社が今でも地域のコミュニティとなっていることである。神社の清掃、修理は地の人たちの手で行い暮には注連縄作りのために集まる。

静かな会話がここにある。

0 件のコメント: