軍道通り |
2011年8月29日月曜日
長谷
2011年8月13日土曜日
掃苔
区画整理などで昔墓地だったところが道路や宅地になる時、公共墓地に回向することがある。
門司、大里では城山公園にその塋域がある。庄司の地蔵寺には田野浦の遊女の墓が回向されている。また大里の西生寺、廃寺である静泰院跡にも多くの無縁墓がある。
楽しむところはいくらでもあるのである。
有名な人の墓ならともかく、こんな田舎では無名の墓ばかりである。
それでも観ようによっては面白い。
無縁墓の中でも、門司のものは明治大正のものが多く、石や彫りが立派なものが多いのが特徴である。生前の羽振りのよさは想像に難くない。しかしいくら立派な墓でも、100年も経たないうちに無縁になるとは、故人には思いもよらなかったに違いない。
大里の墓は江戸期のものが多い。200年以上昔の墓もある。
俗名には苗字がなく、名だけである。如何にもありふれた農民の墓である。職人の墓には職種を刻んである場合もある。
昔自然石の墓は行き倒れの墓であった。しかし回向された墓のほとんどはきちんと加工された墓石である。小さくても埋葬してくれる親族があり、世間並の生活を営んでいたのであろう。
一般に江戸期の庶民には真宗が多い。戒名を看れば門司六郷も同様であったことが窺える。浄土宗ならば少し余裕のある家柄であったのかもしれない。
院号があり苗字があれば武士である。俗名が屋号なのに院号が刻まれた墓石もある。もしかしたら寺に多額の寄進をしたお大尽かもしれない。明治以降ならば戦死であろう。
居士号ならば禅宗だろうか。武士には禅宗が多いと聞く。
墓の大きさや戒名から彼等の生活を想像するにはもっといろいろな知識が必要である。あればもっと面白いに違いない。
2007年11月23日 mixiの日記より
2011年6月24日金曜日
口説かれて瞽女はぶつならいやと言い
瞽女は文化のように書かれてある資料は多いがとてもそんなものではなかった。果たして継承すべきものだったのか。
近世以前、人々は貧しかった。普通の人でさえ食うことがやっとの世間であった。盲目を含め障害者がどのような仕打ちを受けていたのか想像に難くない。
そうはいっても幕府は幕府なりに盲人の保護をしていた。
按摩や鍼灸、そして金貸しは彼らの独占であった。盲目は盲目なりに技術を身に付け身を立てろということである。当世ほど甘やかしてはいない。
しかし一流になるのは至難である。またそれだけで食っていけるほど世間は甘くはない。
盲目でどうやって食っていくか、その知恵を絞りに絞って出てきた仕事が瞽女なのではあるまいか。
当然巧い下手がある。巧くても生きていくのが至難であれば下手ではどうすればよいのか。それこそ肉の売買しか手はないではないか。
そのような過酷な仕事が今の世の中絶えて久しい。有難いことである。
町おこしに歴史は安易に利用されている。ただ美しい思い出だけを取り出して歴史というのは如何なものか。
保存すべきものもあろうが、伝承だけでよいものもある。保存するなら事実そのものも語り継がねばなるまい。それを無視することは許されぬ。
2011年2月17日木曜日
三宜楼のかほり
当時門司市民はいったいどのような生活送っていたのだろう。
不況時に都市への人口流入が加速するのは現在でも同じであるが、門司は近隣町村や外国からの労働者の大量流入があった。まずは住宅事情の悪化が問題になったはずである。
実はこの当時門司では住宅業界は好景気に沸いていた。住宅地の王様は大里地区であるが、門司では黒川、上本町、清滝が住宅地として盛んに開発され ていた。黒川、上本町からの通勤は遠かったのではと考えがちであるが、この当時、門司にはバス会社が2社あり、昭和6年には新たにメカリバス会社が営業を 開始し門司駅(当時)和布刈間を往復している。中でも門司自動車は停留所にベンチを置いたり少女車掌を採用したりして門司の住民には人気があった。いつの 時代も女の子の笑顔に勝るものはない。
同じ時期に和布刈遊園地が開園、栄町には門司で最初のデパート「門司デパート」がオープンした。また後に頓挫するが関門橋建設計画が具体化しつつあった。みなと祭りやイベントは、いつものようにドンチャン騒ぎ。不景気でも門司の住民は明るい未来を信じていたのだ。
門司の総人口が11万人をやっと突破した頃、色街で働く女性たちの数は1200人を越えていた。これは実に総人口の1%強に当たる。市当局が把握していた数だけでこれである。門司を語るには色街を抜きに出来ない理由がここにある。
国際航路で賑わいを見せていた門司港に、荷物を満載した外国船が入港する。扨々ひと戦(いくさ)始まる気配を感じると、姐さんたちは戦の準備に余念がない。
こういう日は当時一流の料亭と言われた萬檣楼(ばんしょうろう)、菊廼屋(きくのや)、金山で芸妓の総揚げが行われるのだ。
陽が沈み、船溜りに赤い燈がおちる頃、弦歌の声がバスや円タクの騒音をかき消そうとしていた。
門司の街は一段と輝きを増した。
勝ち目のない若者たちは早々に内本町のカフェー街を闊歩した。当時彼らは内本ブラと呼ばれていた。
手薬煉(てぐすね)引いて待ち構えていた門司の女軍たちには、彼ら荒くれ船乗りたちを返り討ちにすることは他愛もないことであった。
そりゃあ板子一枚で地獄と娑婆を仕切っているゴンゾウたちと、日頃のお付き合いのある門司の姐さんたちである。そこいらの船乗りが敵手になるはずもない。
ゴンゾウたちを飴のようにコナすには、相当の意地と、張りとオシと腕とが必要だったに違いない。その代わり彼らに特有なザックバランな気質が感染した。関門を吹く潮風と相俟って独特の門司芸妓気質がこうして生まれたのだ。
姐さんたちの朝は早い。とりわけ門司では七分(しちぶ)と呼ばれていた半玉たちは、朝9時には先輩姐さんたちに挨拶に行かなければならなかった。 彼女たちは先輩姐さんたちの前日の着物の片付けや身の回りの世話をしなければならなかったのだ。1日でも早く左褄(ひだりづま)をとった方が先輩である。 序列は歴然としたものであった。10時から券番での稽古が始まる。「門司芸伎の自慢は」と尋ねると「芸」という言葉が返ってくる。券番での稽古は厳しいも のだったらしい。遠く東京から名立たる師匠を招き三味線、お囃子、踊りの他にお茶の嗜みまであった。それが毎日午後2時まで続いたのだ。また故出光佐三は 芸妓たちの芸のために「風師会」という組織を主催し、芸妓たちは月に1度、三宜楼の大広間で三味や踊りを競った。芸妓たちにとって「風師会」で認められる ことが何よりの名誉だった。
姐さんたちは稽古が終わると午後2時頃から銭湯へ行き汗を落とし身支度をする。内湯があっても銭湯へ行っていた。遅く行くと先輩の背中を流さなくてはならないので、若い芸妓は早くから銭湯に行ったらしい。今も昔も若い娘はちゃっかりしている。
芸妓の着物はハンパではない。帯の締め上げは男衆(おとこし)の仕事であった。4時には支度が出来上がる。早ければ5時、遅くとも6時には御座敷に揚がった。
客たちは夜が更けるまで姐さんたちの三味や踊りに酔いしれた。
このような風情も今は昔。わずかに昔の俤(おもかげ)を偲び得るのはここ三宜楼だけになってしまった。
さて「三宜楼」である。
先ずは「三宜楼」の名前の由来について考えてみたい。「宜楼」は普通「妓楼」と書くが、「宜」には饗宴の意味がある。「三」は聖数なので、つまり多くの人に楽しんでもらう場所という意味と解釈したいが如何なものであろうか。
実は三宜楼は再建であった。明治時代から営業をしていたらしいが、そのことについての確実な資料は残念ながら渉猟しきれていない。この再建の際に 毀された旧三宜楼の廃材などを使って、清滝地区には貸家が建築されている。三宜楼はただの料亭だが、それだけではなかった。街づくりの中核を担っていたの だ。
竣工は昭和6年。当時の門司新報によると昭和6年4月2日から1週間掛けて新築披露宴が行われ、飲めや歌えのドンチャン騒ぎが繰り返されていたら しい。同じく門司新報の記事では「(前略)新古の粋を萃(あつ)め優雅にして堅牢の間取りの如きも大小十五を算し且つ眺望の佳なると相俟(ま)ち料亭とし ては北九州の偉観を呈している」(昭和6年4月5日)と書かれていることから、門司っ子にとってそれは大いなる自慢であったに違いない。
芸妓たちは裏玄関から上がり、2階の控え室で出番を待った。七分たちは姐さんたちの三味や囃子の準備に忙しい。宴会は主に3階を利用した。迷路の ような廊下、複雑な造りはお客さん同士が顔を差す(鉢合わせする)ことのないような配慮である。もちろん姐さんたちの口は堅かった。どこで誰が来ているか なんて誰にも分からなかったはずである。しかし隣の客をこっそり盗み見する部屋もちゃんと用意されてあった。それは当時一流といわれた料亭では当然のこと であった。
花街が最も賑わったのは忘年会シーズンだったことは言うまでもない。姐さんたちは掛け持ちで大忙しだった。掛け持ちのことを門司では「もらい」と 言った。それでも売れっ子の姐さんたちは「是非もらい」という催促まで来るほどであった。暮れがおし迫った三宜楼では、調理場で餅つきが行われた。板の間 には芸妓衆が勢ぞろいし三味や囃子で「餅つき唄」が歌われた。それは威勢がよかったと人は言う。門司の栄華は永遠に続くものと思われた。
つづく
※ 表記は昭和初期「門司新報」に従った。
「見番」は門司では「券番」と表記されていた。
「料亭」は戦後の「料亭」ではない。酒や料理は料理屋からの仕出しであり、東京では「待合」と呼ばれていた。
2006.7.24 mixiの日記より
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2011年2月12日土曜日
響灘奇譚 付(つけたり)
2011年1月7日金曜日
響灘奇譚5
金右衛門ら三人の目明しはこれらの功により幕府より十人扶持を賜った。
また、藍島に今に残る大旗揚場は金右衛門の指図により建てられたものである。抜け荷船が近づくと、それを小倉に知らせるためにここに大旗を揚げ、ここから揚げた紺地に白の三階菱付き大旗は、堺鼻(櫓山荘跡)からよく見えたという。
武力による打ち払いには等倫(なかま)が結束して事に当たればよい。しかし差し口、目明しによる探索は等倫に疑心暗鬼を生む。結束の緩んだ組織は溶解する。
畢竟(ひっきょう)ここ響灘での抜け荷は減少し、自訴が相次いだ。
享保八(一七二三)年、小倉藩は抜け荷の終息を住吉神社迂宮(せんぐう)という形で宣言した。藩主自らの見分により、大里の地が選ばれたのは偶然ではあるまい。ここから眺める夕景は「入日の松原」と謳われ、今も人々の心を潤す。社地壱反五畝十八歩(一五四七平米)と二十石の寄進とを併せ、これは安堵の顕(あらわ)れであろう。
先生金右衛門は以後幕府の手先として全国各地で活躍したという。しかし世間並みの渡世ではない。仕事も人物も表に出ることはなく、彼は謎の人物として、あるいは歌舞伎や小説の荒唐無稽なモデルとして歴史上に名を留めるのみである。
街の発展に伴い、神社は移転縮小した。しかしここ住吉神社には先生金右衛門の足跡が確かに残っている。