2011年2月12日土曜日

響灘奇譚 付(つけたり)


密輸で抜いた荷の多くは下関へ船で運ばれ、そこで待ち受けた別の船に積み替え、瀬戸内経由で大阪へ送られた。陸路で送られる輸入品は小倉で吟味があった。それを避けるため、長崎周辺で抜かれたものもひとまず下関まで船で運ばれたという。
江戸時代の輸入品のうち、抜け荷が占める割合は約二割という下説(げせつ)がある。下関の繁栄は北前船ばかりではなかったのかもしれない。
抜け荷船に対し、長筑両藩は小倉藩と対照的な応接をした。享保五年(1720)、黒田藩は抜け荷船に火を掛け船員を鏖殺(おうさつ)した。また享保十一年(1726)、毛利藩もまた唐船(とうせん)一艘に対し殺戮をおこなっている。まさに「打ち潰し」であった。ところがこの船には信牌が与えられていた可能性があった。この事件に中国側は信牌所持の有無を確かめることを幕府に願い、婉曲に砲撃停止要求の意を含ませた。そしてこれを最後に、十年に亙ったこの海域での抜け荷は跡を絶った。ものごとの終息とはこういうものかもしれない。
しかし、長筑両藩にとってこの戦いは完勝であったことは間違いない。この経験が遺伝子となり、後の異国船打ち払いや過激な攘夷思想に繋がったのかもしれないと淡い想像も悪くはない。

0 件のコメント: