2008年3月21日金曜日
掃海
終戦直後の関門海峡は機雷によって完全に封鎖されていた。
港が生命線である門司にとって、いかにして港を再開させるかが最も重要な課題であった。
被占領国日本にとって、先ずはGHQへの陳情である。しかしGHQにとっては、横浜神戸の方がはるかに急務であった。
門司は旧日本海軍に掃海を頼むことにした。この当時旧日本海軍の掃海基地は吉見にあった。
責任者は田村久三元海軍中佐、旧日本海軍掃海部隊の隊長で、米海軍極東司令部からも重く見られた人物であった。
旧日本海軍の掃海部隊は多くの殉職者を出しながら、この危険な任務を遂行した。
しかしいくら日本が安全宣言を出しても意味がない。
日本は所詮被占領国であり、海峡は国際航路である。どうしてもアメリカ水路部の安全宣言(お墨付き)が必要であった。
門司は月に一度職員を東京のGHQへ派遣し、陳情を繰り返した。
アメリカは重い腰を上げ掃海作業を行った。これを仕上げ掃海といった。
そして昭和24年1月、西口(小倉側)から、同年10月、東口(瀬戸内側)からの安全宣言が出され、11月5日には砂津に於いて掃海記念式典が華やかに挙行されるに至った。
実質、掃海は殆んど日本人の手によって行われたのだが、アメリカとの結び付きを必要としていた時代であった。
2008年3月20日木曜日
旧英国領事館跡
昭和初期の「門司市街圖」に「英国領事館」とあるのはここのことである。が、場所が違う。また領事館といっても出張所であった。
明治36年4月1日に開庁式が行われ、以来船舶事務を取り扱った。
この出張所開庁に尽力した人物にホーレスナターという人がいる。
彼は御所神社の玉垣にその名が刻まれていることから、大里の文化に深い関心を持っており、また門司の景観を最初に憂た人物として記憶されるべきであろう。
彼はホームリンガーと深い関係にあったらしく、大里寺内にあった当時水無荘(すいむそう)と呼ばれていたホームリンガー支配人、ネール・ブロディ・リードの別荘を購入している。
この水無荘がまだネール・ブロディ・リードの持ち物だった時代、ここで21歳の藤原義江が父と対面し、和解した場所として特筆されてもおかしくない。
父は義江に欧洲遊学の資金を約し、これを機に義江は本格的なオペラ歌手として歩み始めることになる。
父は翌年急逝したが資金はホームリンガーから出された。将に絶妙のタイミングであった。
藤原義江の凄味は聴衆をつくったことである。謡と長唄の日本人に洋楽の素晴らしさを伝え観賞するまでに育てたのは彼である。
この凄さにはどんな天才も敵わない。
下関はもっと大切にしてもいいのではないだろうか。
2008年3月19日水曜日
醍醐
「醍醐」である。
竣工は大正6年と聞いた。中野真吾元門司市長の邸宅であったものを、現在の持ち主の先代が購入したらしい。
幾分建て増しがある。往時はもう少し庭が広かったであろうか。
家作は贅を凝らした造りであるらしい。岩田酒店と殆んど同じということから当時の門司の美意識の一端を窺うことができるかもしれない。
北側の部屋は現在は和室だが当初洋間であったと聞く。中野真吾の手際を感じる。
昔の大工にはある種美意識と見識があった。形は違っても贅の凝らし方は一途であった。
もし火事で焼けても寸分違わぬ家を造作出来たと謂う。もちろん設計図はない。
邸宅が買い取られてのち、料亭「醍醐」として営業を始めた。客は毎日新聞社の関係者に限られたという。社長が檜風呂が好きということで、豪華な檜風呂をこしらえたというエピソードが残っている。
2008年3月18日火曜日
料亭「三笠」
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