2009年12月6日日曜日

響灘奇譚1

日本が泰平の恩寵に恵まれていた江戸時代中頃のことである。
先生(シャンスイ)金右衛門という男がいた。
生まれは長門とも筑前とも謂われている。幼い頃、父に連れられ長崎へ行き、そこで商一通りを覚えた。海運を生業(なりわい)にしていたのであろうか、驚くことに中国に八年もいたという。時代(とき)は鎖国の真っ只中である。

鎖国とはいえ日本は長崎を通し貿易を続けた。細々ではない。輸入品は日本の流通に深く根を張っていた。
輸入品は人参、麝香(じゃこう)、蘇木(すおう)などの薬や紗綾、綸子、緞子などの絹織物が多くを占めた。高品位の絹織物はまだ国産できなかったのである。また日本の菓子文化の源(みなもと)である砂糖も多く輸入された。長崎街道が後にシュガーロードと呼ばれるほど、北部九州は世界屈指の菓子王国へと成長しつつあった。
おもな輸出品は銅であった。中国人、オランダ人にとって銅は金よりも貴重であった。当時、銅ほど一般に広く使用された金属はなかった。銅銭はアジア一帯で広く流通し、水差し、たらいなどの台所用品から船や大砲の材料として銅の用途は数え切れないほどあった。中国では鋳造した銅銭を溶かし、地金にして売る者が絶えなかったという。日本の銅は魅力的だったのだ。

金右衛門は中国に滞在中、「書」、「詩」など一連の教養を身につけた。併せて国際人としての知識、感覚もふんだんに享受したに違いない。彼は当世無双の国際人に成長した。かの地で暮らすうち、どうやら幕府の鎖国政策がいかに理不尽であるか身に沁みたらしい。彼は抜け荷に手を染める。

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