早鞆の瀬戸より狭いぬしが胸
書きつくされぬ文字ヶ関
岸打つ波は城山の 袖に涙の雨が窪
ひとつそもじの大久保に
頼む田野浦一筋に ふみに迷うて山中の
観音様に願かけて
身は楠原の川原に 恋にこがれて鳴く螢虫
早鞆の瀬戸は狭い。そして速い。
移り気する男心と掛けている。
往時、関門海峡のことを門司では硯海(すずりのうみ)と呼んでいた。
硯の中の海ほど狭く浅い海ということである。
硯に対して筆立山がある。そして門司硯。
なんとも優雅な名称ではないか。
文字ヶ関は門司ヶ関。
旧門司にあったと言われているが、一説には田野浦にあったとも言われてる。
いまだに比定地はない。
前説のよりどころは旧門司にツクシ、オウマヤ、ヤシキという小字があったということと、
近世、和布刈神社参拝には梶ヶ鼻辺りに船を泊めて参拝していたことから、流れの速い関門海峡で、古代でもこの辺りに船を泊めることが可能であったらしいということ。
崇聖禅寺がその役所跡と言われている。
下関の関所は前田に比定されてる。後説ではそこからの船便は田野浦が最も安全で近いという理由からである。
梶ヶ鼻 |
古城山とは「昔、城があった山」という意味で(あたりまえ)、つまり城があった当時は古城山とは呼ばれていなかった(これもあたりまえ)。
ではいつから古城山と呼ばれていたのだろう。
また古城山と呼ばれる前は何山と呼ばれていたのだろうか。
慶長二十年までここには現役の城があった。ということは江戸中期までは古城山とは呼ばれていなかったと思われる。
つまり江戸時代はただの「城山」と呼ばれていたのではないかとこの恋歌から推測できるのである。
古城山 |
慶応丙寅の変動は長州軍による田野浦への艦砲射撃で始まった。
艦砲射撃によって田野浦に駐屯していた小倉兵を足止めし、前夜大久保に上陸していた長州軍の奇襲により田野浦は一日で制圧された。
ああ、悔しい
めかり駅から明神の尾を望む |
旧食糧倉庫 |
山中というのは田野浦と白野江の間にある村落である。
天和元年、小倉長浜に阿波からの亡命者が漂着した。彼らが住み着き開墾した土地が山中で、ここで産出する石から門司硯が作られた。近代、大正天皇にも献上された由緒ある硯であった。
彼らが阿波から携えてきた観音像は、海上安全には霊験あらたかのため、田野浦に寄港する船乗りたちの信仰を一心に集めていた。
高田屋嘉兵衛奉納の花瓶も現存している。
今も彼らの子孫が年に一度この観音像をお祭りするためにこの地へ集まる。
絶えてほしくない風習である。
山中観音の厨子 |
楠原村の疆域は白木崎葛葉から旧門司1丁目の半分くらいまで。
その昔、きれいな小川が幾筋も流れ、水の豊富な村だったことは戦前の門司古地図からも想像できる。
また港町としての条件の一つとして。清水が出ることは重要であった。
今はほとんどが暗渠になりその面影はないが、ホタルがたくさんいたのであろう。
潮騒と小川のせせらぎが聞えてくる静かな村落が想像される。
この恋歌が田野浦の遊女の作であるかどうか、今となっては詮索不可能である。
むしろ詮索は不要であろう。
重要なことはこの恋歌が遊女の作かどうかという事実ではなく、田野浦の遊女が作った歌と信じられていたということではないだろうか。
この恋歌は田野浦遊郭の看板であった。
田野浦聖山天満宮跡 |
遊郭というきらびやかな世界も一枚めくればそこは単なる肉の売買である。
世間でもっとも蔑まれた商売であることは疑いもない。
その商売に格式を設け、権威をつけることによって客は憧れを持つ。夢を見るのである。
この商法は現在でも有効であろう。
その昔、田野浦の遊郭には情が篤く教養の高い遊女がいた。そしてそれが船乗りたちの憧れであった考えるだけで当時の田野浦の隆盛が眼に浮かぶ。
船乗りたちの無邪気な笑顔が眼に浮かぶのである。